「善」と「正義」は違う

お早うございます。

 

今日は、5月12日の日曜日。

時間は、4時です。

さすがに4時では、外はまだ暗いです。

 

今日のタイトルは、最近考えていることです。

私は、今迄の生活の中で自分の正義を誰かに押し付けていたのではないかと思うようになりました。

 

そこで、「正義」とは何だろうと思ったのです。

「正義の味方」、ヒーロー戦隊のドラマでは、お決まりの文句ですよね。

誰にでも優しくて、悪を許さない。

カッコよくて、憧れますよね。

ヒーロー戦隊系のドラマでなくても、そんな主人公の出るドラマはありますね。

 

でも、現実社会ではどうなのかと考えると、そんな人はいないのではないかと思ってしまったのです。

だから、ドラマや小説という作られた空間で取り上げられるのでしょうね。

言わば、理想の偶像化が戦隊ヒーローで、正義の味方なんでしょうね。

 

なんでこんな事を書いているのかというと、現役時代の私を振り返ってみたからです。

当時の私は、自分で生きづらい環境を作っていたように思います。

例えば、自分で不機嫌を装ったり、部下に対して高圧的な態度で接し、部下に緊張感を与えたり、上席に対しても意味のない事で横車を押して、口論に持ち込んだりと、今考えると目茶苦茶をやっていました。

電車の中では、足を組んで座っている人にわざとぶつかって、にらんでみたりして相手が文句を言ってきたら、正論をぶつけて論破したりと、全く迷惑千万ですよね。

それが自分の「正義」だと思っていたのです。

 

もう少し頑張れば成果が出るのに、諦めてしまっている部下に対して励ましではなく、叱咤することで反発心をあおり、成果を出せるようにしたいと思っていたのです。

上席には、無理難題を平気で言って部下が苦しんでいるのを知ってもらいたくて、訳のわからない理屈をこねて頂けだったのです。

電車の中では、自分のフラストレーションを発散するために、足を組んで座っているや、年配の方が立っているのに、平気で優先席に座っている人が許せず、わざとその人の前に立ってみたり、ぶつかっていたりしていたのです。

単なる「嫌な奴」でしかなかったのです。

 

しかし、その時の私は「正義の味方」を気取っていたのです。

「もう少し頑張れ。そうすれば結果が出る。お前も結果がでれば、自信が持てるし仕事が面白くなる」とか「もっと、目下の者の話を聞いて欲しい。彼らは彼らで頑張っているんだ」とか「車内放送を聞いていないのか。足を組んだり投げ出して座るな。杖をついて立っている人がいるだろう。譲れよ」と思って「俺が解らせてやる」と息巻いていたのです。

 

これらのすべての行為は、私の中では「正義」だと思っていましたが、全くの勘違いでした。

 

では、この行為は「悪」だったのでしょうか。

被害者(私に絡まれた人達)からすれば、「悪」以外の何者でもありませんよね。

私が逆の立場だったら、「とんでもない奴だ」と思いますから。

 

そんなことが、最近になってやっと解ったのです。

私のやっていたことは、私にとっては「善」なんだけど、被害を受けた人から見れば「悪」でしかない。

そして、私は「悪者」以外の何者でもなかった。

 

それは、私が「正義」や「善」「悪」という言葉を、きちんと理解していなかったからです。

 

「正義」を調べると、「人の道にかなって正しいこと」と出てきます。

この解釈からすれば、足を投げ出して座ったり、老人や妊娠している人が立っているのに、悠々と優先席に座り、スマホを見ている人は、正義ではないと解釈できます。

 

しかし、私は「正義」の解釈をこのように変えました(これはあくまでも私の解釈です)。

「誰が見ても聞いても、多くの方がその行為は人の道にかなって正しい行為である」と判断できる行為が「正義」。

つまり「客観的」に判断できる行為が「正義」だと。

確かに、足を投げ出して座る事や、座席を必要としているのに、知らんぷりをして座っている行為は、正義ではないかも知れませんが、見た目は普通でも、その時は熱があって立っているのがしんどいのかも知れませんし、見た目は普通の方に見えても、見えない障害があるのかも知れません。

だから、自分の一方的な判断で圧力をかけるような行為は、「正義」ではなかったのです。

 

しかし、それではその時の私が可哀そうです。

で、なんでそんな行為をしたのかを考えてみました。

自分の中には「悪い事」をやっているという思いは、そんなにありませんでした。

自分が「不快7」になっていたことは事実ですが。

 

最近、読み返している書物にこんなことが書かれていました。

「善とは自分の為になる行為」

「善」という言葉は聞いたことがありますが、そんなに深く考えたことはありませんでした。

反対語に「悪」という言葉もあります。

「悪は自分のためにならない行為」

私は自分がやっていた電車の中の足を組んで座る方や、優先席に座り席を譲らない方」に対して行った行為は「善」だったのかなと思ったのです。

「自分が満足するために行った行為」。

マナーという枠で見れば、足を組んで座る、優先席を必要としている方がいるのに譲らない、優先席で平気でスマホを見ている。

そんな行為は決して褒められる行為ではありません。

しかし、その方達はそれをやることが、「善」だと思っていたのだと思います。

「自分のためになる」とは、「自分に利益がある」と判断できるのです。

私も同じでした。

自分の理不尽な行動が、自分がやっていることは良い事だと思っていたからやっていたのです。

結局は自分のためにやっていたのです。

読み返した書物には、こんなことも書いてありました。

「悪いい事をやっている人は、自分がやった事は「悪」だとは思っていない」。

 

犯罪者は、自分の行為が悪い事だと思ってやってはいないそうです。

例え、人を殺してしまっても、その時は悪い事をしているとは思っていないそうです。

自分を守るために自分なりの解釈をして「善」の心で、人を殺めてしまうのだそうです。

人を騙した人も「自分の中では「悪」ではないそうです。騙された人は、騙された時は嬉しかったり楽しかったりしているのだから、悪い事をしたとは思ってないそうです。

極端ですが、犯罪を犯した人は本当に「悪」を意識して犯罪を犯してはいないそうです。

自分なりの「善」があるそうです。

 

私は、この事を知った日から、考え方を変えました。

その人を思って「善」の意識で、アドバイスをすることは辞めました。

電車の中で、足を組んでいる人や、優先席で携帯を見ている人をみても、その人は悪いと思ってやっている訳ではないし、気付かないのはその人なのだから、私がおせっかいをすることは無い。

私が座っている時に、席を必要としている人を見かけたら、席を譲ればいい。

他人を自分と同じに考えることや、圧力をかけるという行為は独りよがりのエゴイストな行為でしかない。

自分で自分を不機嫌にすることは無いし、周りの方に不快感を与える事もやるべきではないと。

 

65年も生きてきて、今更と思う方も居るかも知れません。

むしろ、そのような方の方が多いでしょう。

しかし、このような行為をしていたのが過去の私だったのです。

65年生きてきて、気付いたことなのです。

 

反省はしますが、後悔はしていません。

何故なら、その時の私がいたから、こうして気付く事ができ、この後の人生ではこのような行為はしないと決めることが出来たからです。

「善」と「悪」と「正義」の意味も、私なりに理解したつもりです。

今後も、このような気付きを大切にしながら生きて行こうと思っております。

 

昨年に撮影した藤の花を描いてみました。難しかったです。藤の花は小さな花がブドウのように房になって咲いています。どのように表現していいかを悩みました。決して納得の出来ではありません。

 

上に貼り付けた藤の花に納得できず、新たに描いてみました。上の絵は藤の花びらをマスキングという手法で抜き、後から絵の具で着彩しました。この絵は逆行になっている藤の花を表現したかったので、敢えて絵の具での着彩を控えめにしてみました。何か中途半端な絵になってしまったように感じます。藤の花はとても難しい題材でした。機会があれば、またチャレンジしたいです。