お早うございます。
今日は4月14日の日曜日
時間は午前2時18分。
真夜中ですね。
今日は気温が高くなるとの予報です。
桜が満開になったかと思いきや、もう葉桜になりかけていますね。
桜の開花時間は、とても短いですね。
だから魅かれるのでしょうか。
私は以前から仏教に興味があったのですが、きちんと仏教を学んだ事がありませんでした。
仏教に関する書籍も読んだことがありませんでした。
高校の時に倫理社会で仏陀を軽く学びましたが、その時は興味が無かったので、何にも理解せずに終わってしまいました。
仏教に興味を持つようになったのは、50歳を過ぎてからです。
最初は、仏像に興味を持つようになり、お寺を見て回るようになりました。
参拝する寺にある仏像を眺め、どのようにして作られたのかに興味を示したのです。
現在のような高度な道具があった訳でもないのに、何故あのような立体物を作り上げることが出来たのか。
仏像だけでなく、寺の建造物でも釘を使わずに木材をくみ上げる建築様式は、どのようにして編み出されたのかと想像すると、不思議でなりませんでした。
しかし、長野の善光寺を参拝した時、和尚様の講和を聞く機会に恵まれ、お話を伺ったのですが、何故、仏教がうまれたのかから始まり、仏教の教えの根幹は何なのかというお話を伺い、仏教に興味が湧いたのです。
しかし、当時はまだ、自分から勉強してみようとまでは思いませんでした。
仏教は自分には遠い存在のように思えましたし、今を生きる事に精一杯でしたので、時間を掛けて仏教を学ぼうとも思わなかったのです。
当時の私の中で仏教は、興味はあるが必要とされる知識ではなかったのです。
しかし、66歳と言う年齢になり、自分の人生の半分以上が過ぎてきた今では、自分の生の時間があとどのくらいあるのかも考えるようになり、はっきりとした宗教意識はなくとも、仏教は一番身近にある宗教だと思ったのです。
現役を引退して、時間にも余裕が出来たこともあるのですが、自分が生きてきた人生を振り返り、この後の人生をどのように生きて行こうかと思った時、仏教を学んでみるのもいいかなって思ったのです。
そこで、先月のお休みの日に近所の図書館に行って、仏教に関する本を探してみました。
書籍の名前は忘れてしまったのですが、池上彰さんの書籍が目に止まり、その本を館内で読んでみました。
全てを読めた訳ではないので、冒頭の部分だけを読んだのですが、とても興味深かったです。
「人生は思う通りにならない事ばかり」と言うのが仏教の根幹にあるようです。
我々は自分の思いがあり、何とか自分の思い通りに生きていきたいという欲望があります。
例えば、「病気をしたくない」、「裕福な暮らしをしたい」なんて思うのが当てはまります。
誰も「病気になりたい」、「貧乏で過ごしたい」とは思わないでしょう。
「清貧でありたい」と思う人はいるようですが、その日の食事にも事欠くような暮らしまでは望んでいないでしょう。
仏教では、この思いが人生を辛くしてしまう原因だと言われています。
自分の意志に関わらず、病気になる事はあります。
できれば人より裕福な暮らしをしたいと思うのも普通にあるでしょう。
だから、頑張って働こうとするのでしょうし、
努力もするのです。
しかし、その努力によって、若しくは贅沢な暮らしのせいで、病気になってしまう事もあるし、その病気が原因で死を迎えてしまう事もあります。
いつも誰かと自分を比較して、自分の暮らしが勝っているかという事に囚われてしまい、他人に負けることの不安で安らぐ事が出来なくなってしまっていることもあります。
それは、物事に執着が現れ、その執着に囚われてしまい、他の事が見えなくなってしまうのが原因だと言われています。
自分では、もっと沢山のお金が欲しいのに、そのお金が手に入らない。
沢山のお金も地位も持っているのに、それ以上を望んでしまう。
これが「執着」だそうです。
そうすると、自分の思うようにならないと思えるようになり、常に苦しさに惑わされるようになる。
まさに人間の性ですね。
私も自分の人生を振り返ってみると、恵まれていた人生だったのに、満たされているという思いはありませんでした。
小さい頃は、友達の誰かが持っていたおもちゃが自分は持っていないのが悔しくて、両親にわがままを言って困らせた事もありました。不摂生が原因で体を壊してしまい、気分が優れない時間を過ごした事もありました。
いきなり意識を失い、救急車で搬送されいろいろな検査を受け、ストレスが原因であると診断されて事もありました。
自分の思いを強行に通そうとして、人間関係を壊したこともありました。
その度、辛く苦しい思いを繰り替えてきました。
生きていくために必要なんだと自分に言い聞かせ、自分をだましていたのでしょう。
だが仏教では、それらがすべて「生きる為の苦しみ」と説いています。
そして、その苦しみを軽減するには、不必要な「執着」をなくすことが大事だと説かれています。
全ての「執着」が悪い訳ではありません。
自分を苦しめる「執着」は排除する事が、生きるために必要になる事もあると言われているのです。
私はそのように解釈しました。
仏教は、とても奥が深い教義です。
その人により、解釈は変化するでしょう。
「仏の教え」が仏教です。
仏は人々の苦を取り除き、生きる喜びを伝えるために、法話をされたそうです。
「抜苦与楽」、「苦しみを無くし、楽を与える」のが仏教の根幹ではないかと思います。
そして、人は生きていくうえで多くの悩みを抱え、多くの執着を持ち、苦しみながら自分を成長させるためにもがき苦しんでいるのではないでしょうか。
その苦しみの中から、他人を慈しむ心が現れてくるのかもしれません。
まだまだ、仏教をしっかりと理解した訳ではありませんが、ほんのちょこっとかじっただけですが、こんなことを感じました。