まずは、自己紹介から始めよう。

私の名前は「しばやん」とでもしておこう。

正式な名前でブログを書きたいと思うが、このインターネットという媒体は便利であるが、予期せぬ危険もある媒体なので、私のような何の取り得もない老人でも気を付けるに越したことはないと判断した。

 

何故、私がブログを書こうと思ったかであるが、私は今年63歳になった。

あと2年で年金受給者となる。

という事は世で言う「高齢者」の仲間入りをしたことになる。

3年前に定年を迎え、「現役」を引退した。

現在では60歳で「隠居」という浮世から足を洗って、

悠々自適な生活を楽しむことは夢物語になってしまった。

とはいえ、残された人生は過ごしてきた人生より短いのは

「押して知るべし」の事実である。

そこで、私が生きてきた証を残したいと考えたのである。

「人間は死んで石を残す」と言う言葉を聞いたことがある。

死んで墓石を残すという意味らしい。

しかし、最近では墓も高額で作れるかも解らない。

墓すら団地みたいになっている。

で、費用も掛からず自分が生きた証を残せる媒体は何だろうと考えたとき、

ブログが浮かんだのである。

 

今日から、ブログが書き続けられるまでの間、

定期的にブログを更新していければと考えている。

ブログを更新することで、自分が生きている証を残せるのと、

ブログを更新しようという意欲が生きる糧になれたらと考えたのである。

 

多分、このブログは面白いブログではないと思う。

なぜなら、無名で何の取り得もない高齢者のブログなんて

面白い訳がないからだ。

私だったら、読もうとは思わないと思う。だけど、それでいいのである。

誰かに読んでもらうためとか、何かを販売したりすることは考えていない。

(今の時点では)

 

今まで生きてきた思い出や、後悔をしたことや楽しかったことを

取りとめもなく書き記していきたいと思っている。

 

今日は簡単に、私のプロフィールを紹介したい。

生まれは、茨城県の中央部の農家の二男坊として生を受けた。

両親から、「お前は生後間もなく仮死状態になって1週間程、生死をさまよった。

だから、健康に育つとは思っていなかった」とよく言われた記憶がある。

どうして、生死をさまよったのかの原因ははっきりと聞いていない。

多分、そこは触れたくなかったようである。6つ年上の兄がいたのだが、

彼からもその件は良く聴かされた。

あながちウソではないようである。

幼少時の私の家族は、祖父、祖母、父、母、兄の6人家族であった。

当時の日本の農家の標準的な家族構成だった。

祖父は厳格で頑固な人で、その上「ケチ」だったようである。

幼少の時から稼業を手伝い、厳しく育てられたようである。

祖母は小さい体格であったが、気丈な女性であった。

私には優しく接してくれた記憶がある。

父は、6人兄弟の長男で嫌を無しに家督を継ぐ事を強要されていたようである。

頭は良かったようだが、気が小さく神経質な性格だったようである。

母は、その家に嫁いできた女性で気丈で負けず嫌いな女性であったようだ。

愚痴を言うことなく、嫁を務めていたように思える。

父が42歳で早逝してから、母一人で私と兄を育ててくれたが、

弱音を吐いたことは覚えていない。

兄は、頭が良く神経質な性格であった。

私とは真反対の性格(幼少期は)で、何事も几帳面な人であった。

私は、体が弱く小学校に入学するまで、自宅から出ることは無かった。

常に家にいて、テレビを見ているか、本を読んでいる生活をしていた。

母は私が成人まで生きられないかもと本気で思っていたようである。

私の記憶でも、幼稚園にも通っていないし、すぐに風邪をひいたり、

腹痛や発熱で病院へ通院した記憶がある。

その傾向は中学でもでていた。

体が丈夫になったのは、中学で運動部に入部をしてからである。

 

学業は、小学校の時は成績が芳しくなかったように覚えている。

宿題のドリルが出来なくて、終わるまでご飯を食べさせて貰えなかったと

記憶している。

その原因は落ち着きがなく、すぐに飽きてしまうので、

ドリルが進まなかったのと見直しをしないので、間違いが多かったからと後で解った。

学校でも落ち着きがなく、良く先生に叱られていたことを記憶している。

 

性格もあまり良くなかったようで、いじわるなことをしたことも覚えている。

多分、現在でいう「発達障害」や「多動性障害」があったのかも知れない。

 

友達とも良くケンカをしたことを覚えている。

特に小学校の低学年の時は、体が弱いのに負けず嫌いな性格で、

良く口論をしたことがあった。

 

おっと、つい筆が進み過ぎてしまった。

この続きは次の機会しよう。