お早うございます。
今日は4月28日の日曜日。
時間は0時45分。
真夜中ですよね。
なんか目が覚めてしまいました。
老化が進んでいるのでしょうか。
普段でも2時15分には起床しているので、あまり苦痛にはなりません。
むしろ、自分の時間が取れて嬉しく思っているくらいです。
折角、目が覚めたのだからブログの記事を書こうと思い、ベッドを抜け出しPCの前に座りました。
起き抜けで頭が回らないと思ったのですが、意外とすっきりとしていて、とても快適です。
最近は急に暖かくなったので、この時間の部屋温度も22.9℃もあり、寒さも感じません。
今日は、机の脇にあった岸見一郎さんの書いた「嫌われる勇気」をつまみ読みした時に思いついたことを書いておこうと思ってます。
この本は、ベストセラーになった有名な本ですね。
いつ頃に購入したかは忘れてしまいましたが、確か上野駅の構内にある書店で購入したと思います。
今迄も何度か読み返しているのですが、先週の朝、絵を描いている時に絵が乾くまでの間に、何となく手に取ってペラペラとページを捲ってみました。
その際、「なぜ「人は変われる」なのか」という小題の部分を読んだのですが、実に面白い内容でした。
すでにこの本を読まれた方は内容についてはご存じだと思います。
ある引き籠りの方が、何故引き籠るのかについて議論をするのですが、小説の中では「家庭環境が原因で引き籠りになるのであれば、同じような家庭環境に育った方は、全員が引き籠りにならなければならない」と言い切るのです。
しかし、現実には家庭環境が悪く育った方の全てが引き籠りにはなっていないと否定されるのです。
その理由は、家庭環境が悪いという「原因」で引き籠りになるのではなく、引き籠りになった方が自分を守る事ができるし、自分に取って都合がいい状況を作り出せるという「目的」が引き籠りという行動を取らせていると書かれていました(内容はあっていると思いますが、表現は若干違います)。
つまり、人間は「原因」の為に行動を起こすのではなく、「目的」の為に行動を起こすと言っているのです。
その文章を読んで、私なりに自分の過去を振り返ってみました。
私は、小学校6年の時に父が自殺をして、母子家庭で育ちました。
父が自殺をしたとき、隣の部屋でテレビを観ていたけど、父の異変に気付きませんでした。
母が帰宅して、父の部屋を覗いたときに気付いたのでした。
私は気付かなかった自分を攻めた覚えがあります。
確かに少しの期間、その事が頭から離れず落ち込んでいたことも覚えています。
「自分が気付いていれば、父はたすかったかも知れないと思った事も事実です。
一時期は学校でも孤立していた時もありました。
今、その時の事を思い出すと、正直な気持ちは「俺は父親が死んだ可哀そうな子供だ。俺を可愛そうだと思ってくれ」という気持ちがあったと思います。
つまり、悲劇の主人公になっていたのです
(その時はそんな風には思っていませんよ。辛いし不安な気持ちもあったのですから)。
そうなんです。自分を悲劇の主人公として、周りから同情を買おうという目的があって取った行動だったように思いました。
この心理は、決してマイナスな事だけで起こることではないと思います。
こんな経験もありました。
高校2年の後期の中間考査(私の通学していた高校は2学期制で、1年を前期と後期に分け、前期の中間考査と期末考査、後期の中間考査と期末考査で成績を決めていた)で、私は数学の試験で落第点(点数が30点に満たない点数)を取ってしまったのです。
理由は、中間考査の1週間前に体調を崩し、学校を休んでしまい、試験範囲を知ることが出来なかったのもありますが、本当の原因は数学自体が苦手だったため、しっかりと授業も聞いていなかったし、自宅でも勉強をしていなかったためでした。
つまり、病気をしなくても落第点を取る確率は高かったのです。
思った通り、その時の数学の点数は10点、なんと2問しか正解は無く、後の問題は全く答えも書けない状況だったのです。
残念ながら中間考査には追試は無かったので、そのままの点数が内申書に記載されてしまいました。
この場合も原因は「病気」にすることはできましたが、決して「病気」が原因ではないですよね。
自分の怠慢な考えが、数学が嫌いという考えが原因だったのです。
そこで、私は期末試験では100点を取ろうと考え、ある程度の点数が取れる得意な科目の勉強時間を減らし、数学の学習に時間を割くカリキュラムを作りました。
期末考査は中間考査で出題された箇所と中間考査以降に学習した範囲から出題されますから、出題範囲が広がります。
なので、後期で学習する部分を授業に関係なく、全て自力で勉強しました。
学校に居る間も、休み時間はすべて数学にあて、自宅でも数学は毎日の学習のカリキュラムに入れました。
解らない所は参考書で学習をし、それでも解らない所は数学の教師に聞きに行ってアドバイスを貰いました。
その結果、期末考査の点数は100点でした。
数学の教師から答案を返される時、「やれば出来るじゃないか。良く頑張った」と声を掛けられたことを覚えています。
この結果が出せたのは、中間考査で落第点を取ったという原因があり、期末考査で100点を取るという目的が出来たからだと思います。
つまり、人間は目的をどのように設定するかによって、自分の進む方向が変わってしまうのです。
起こった原因(結果)をマイナス要因として、そのマイナス要因に囚われてしまうと、目的もマイナスになってしまい、場合によっては引き籠りになったり、間違った道に進んでしまったりするのではないでしょうか。
目的をプラスになるように設定して行動を起こせば、結果もプラスになるのではないでしょうか。
なので「目的」の設定が大事なのです。
人間(動物も)は目的を持って行動を起こしています。
それは無意識になっている場合が多いかもしれませんが、目的の無い行動は無いのではないでしょうか。
食事をする根本の目的は空腹を満たし、生き続ける為ですし、学校に行くのは学ぶためだったり、友達と時間を共有するためでしょう。
そこに目的を見いだせないなら、学校へ行く必要性はないのかもしれません。
この問題は別の機会に考えたいと思います。
よく、定年を迎えた方が生きる目的を見失って、うつ状態になってしまったなんていう事を聞きます。
まさにその通りだと思います。
今迄は毎日、会社へ行くことが目的となっていました。
働く事の目的は忘れていても(無意識に給料を貰う事は忘れていないが)、毎日会社へ行ってあてがわれた業務をこなすという目的は忘れていないので、愚痴を言いながらも会社へ行くという目的を守っていたのです。
ですが、定年になり会社へ行くという目的が無くなってしまうと、何を目的に毎日を過ごしていいのかが解らなくなり、自宅で時間をつぶして過ごす事になってしまい、自分の置かれた現状も整理することが出来ず、いつまでも組織の肩書きに固執したり、家庭でも会社と同じように、上司面をして奥さんや子供に命令をしてしまい、邪魔者扱いを受けるようになってしまうのです。
私も、ちょっとだけ出てしまい、妻とのコミュニケーションが取れなくなってしまった事がありました。
定年後は、生きる目的を自分で見つけることが大事です。
定年を迎え、会社という目的を失ったのですから、自分がこれからの人生を楽しく過ごすためになにを「目的」にして生きていくかを考えることが大事です。
そして、その「目的」を忘れずに生きていけば充実した、第二の人生が開けるのではないでしょうか。