自分らしく生きることを考える

お早うございます。

今日は5月2日の金曜日です。

時間は午前4時30分。

 

今年のゴールデンウィークも後半となりました。

4月30日の火曜日は平日だったのですが、お休みを頂き、ある小学校で3年生の生徒さんに所属している劇団の演劇を見て頂きました。

演目は、ある気の弱い泥棒が油問屋に泥棒に入り、顔だけは怖いが気の弱い犬を盗んでいき、その犬と一緒に旅人を脅してお金を稼ぐのだが、ある時死神がやってきて、泥棒は死んでしまうのです。

しかし、犬に教えられ地獄へ連れて行く鬼の前で踊りを踊り、その隙に犬が鬼の持っている死んだ泥棒の魂の入ったつづらを食べてしまい、鬼は閻魔に叱られるのを恐れて、泥棒と犬に新しい人生をやり直すように生まれ変わらせるのです。

泥棒と犬は、油問屋の孫と飼い犬の子供として生まれ変わり、幸せな人生を過ごすという物語です。

実は、この公演2本立てで、もうひとつの演目は、食べるのもままならない程に貧乏だった農家の息子が、奉公に出て働いて学問を覚え、商才を発揮して一代で大店の主となるのですが、うまい汁を吸おうとすり寄ってくる者たちを小馬鹿にしていました。

そこへ、地蔵の化身の僧侶が現れ、物乞いをするのですが、主人公はその僧侶に残飯を渡して追い出そうとするのです。

貧乏を馬鹿にして、見下した態度を取るのですが、その僧侶は残飯のお礼と言って、立派な硯を置いていきます。

主人公はその硯を見せびらかすために、取り巻き連中を家へ読んで、硯を見せびらかしてその硯ですった墨で自分を褒める言葉を描かせるのですが、その硯は地獄の主の閻魔の、罪人の本性を見透かすための墨をする硯だったのです。

それとも知らず、呼ばれた取り巻き達は、口では主人公を褒めるのですが、書いた文字は本音丸出しの辛辣な言葉でした。

主人公は怒り狂い、取り巻きたちを追い出し、貧乏だった昔を思い出します。

そして、何のために自分が苦労して金や地位を手に入れたのかを思い出し、故郷に置いてきぼりにしている貧乏なままの両親を呼び寄せるのです。

それを見ていた、閻魔と地蔵は感動して涙するという物語です。

 

最初の演目は、動きもコミカルで解り易かったのか、子供達にとても受けました。

笑ってもらい、拍手も沢山頂きました。

次の演目は、鬼や地蔵、閻魔は演者が仮面を付けて演技をしましたので、子供達の受けもよく、また、鬼や閻魔が踊りを踊る(踊る場面は最初の演目にもあったのです)シーンでは、手拍子もしてくれました。

とても可愛いと思いながら演技をしましたよ。

でも、私は主人公を演じたのですが、役柄が悪い商人で、物乞いの僧侶にいじわる(残飯をやるように指示をしたり、取り巻きの商人を怒鳴りつけたりした)をしたので、私が出ると子供たちは静かになってしまい、冷たい目で見ていました。

演技中に「悪い人だ」とか「嫌な奴」という声も聞こえました。

また、場面の展開も複雑だったようで、ちょっと小学3年生には難しかったようでした。

 

ですが、演技が終わり片づけをしていると、先生から声を掛けて頂き、舞台(体育館の檀上で演技をしましたので)の下で子供達と会話をする時間を作って頂きました。

その時、子供達から「面白かった」『ほんとに怖かった』という感想を聞くことが出来、さらに何人かの子供達とハイタッチをすることが出来ました。

とても嬉しかったです。

大人の方に反応とは全く違った純粋な感想を聞くことができ、演者一同でおおいに喜びました。

我々演者は、面白くても面白くなくても、駄目出しをされても、ご覧になって頂いた方のストレートの反応は、とても嬉しいものです。

ひとつの演目を披露するまでには、地味な稽古を何回も行います。

その稽古の姿は、誰も見てくれません。

なので、今回のような経験はとても嬉しく励みになります。

「演劇をやっていてよかった」と心から思う事が出来る瞬間なのです。

 

多分、この時(演じている私)の私は、一番素直な私ではないかと思っています。

同じ演目を演じあう仲間と、目の前にいる観客を喜ばせようとか、少しでも感動してもらおうという同じ目的で時間を共有しています。

この時間には、それ以外は何もありません。

「演技がうまくできなかった」「台詞をかんでしまった」なんていうミスもありますが、観客が喜んでくれたら、全て忘れてしまいます。

誰がミスをしたからと他の演者を批難する演者はいません。

反省はありますが、みんなで共有して次に公演の時は同じミスをしないようにカバーし合おうと、声にはしませんがみんな同じように考えています。

ですから、回を重ねる度に演技の質が上がっていくのです。

 

私生活でも、同じように過ごすことが出来たら幸せですよね。

家族や職場でも、同じようにお互いのミスをカバーし合い、相手を思いやって過ごすことが出来れば、喧嘩やいがみ合いは少なくなると思います。

少なくとも、相手を蹴落としたり、傷つけるような言動も減るでしょうし、「いじめ」もなくなるのではないでしょうか。

ある有名な歌劇団で、団員の中でいじめが起こり、団員が自殺をされたというニュースがありました。

実に悲しい出来事です。ですが、考えようによっては致し方ないのかもしれません。

このような状況になると、「加害者」と「被害者」という言葉が使われます。

いじめたほうが「加害者」、いじめられたほうが「被害者」ですね。

この事件で、本当に悪意があって「いじめ」をしたのであれば、その「悪意」は何故うまれたのでしょう。

そして、なぜ自殺をさせてしまうまで追い込んでしまったのでしょう。

私が思うには、「不安」がそうさせたのではないかと思います。

最初に「いじめ」と言われる行為を始めた時は、決して「いじめ」ではなかったのかも知れません。

始めた人の価値観などから、いじめられた人に対してアドバイスだったのかもしれません。

でも、その言葉は「不安」をはらんでたので、きつい表現になってしまったり、いじめられる側でも反論できない言動だったのかもしれません。

そして、この状態が継続していき、段々とお互いに自分らしさを失い、いじめる側(その意識があったかは解りませんが)は、エスカレートしていき、いじめられていると感じている方の感情を認識することが出来なくなってしまったのではないでしょうか。

そして、いじめられている側(そう思ったのかは解りません)は、何とか思いに応えようと努力をしたが、そのため自分の中に辛さや苦しさが増加してしまい、逃げ場が無くなってしまい、死という最悪の選択をしてしまったではないでしょうか。

 

私が思うには「必要以上の競争心」と「組織への忠誠心」が「自分らしさ」を見失させた結果ではないかと思いました。

 

組織は歴史を重視し、そこにいる人間性を重視することが出来ず、今回の悲しい事故が起こってしまったのだと思います。

 

私たちは人間ですから、嫉妬もしますし無意識に競争心も生まれます。

競争心が生まれれば、優劣が人の絆を断ち切ります。

優れている自分を演じるために、自分より劣った者を作り上げ、自分を優れている錯覚に誘い、悦にひたりたくなるのは人間の「性」かも知れません。

しかし、そのために「自分らしさ」を見失っては、なんの意味もありません。

 

人間には個性があります。足の速い人、すぐに覚えてしまう人、歌を上手に歌える人、人を笑わせて幸せにするのが上手な人、などなど。

 

私は、自分を見失って自分勝手に生きてきたことがありました。

やはり、企業という組織に所属して、無意識に周りと競争をして(周りは競争などしていなかったかもしれませんが)、他人と自分を比較して、自分が上だと勝手に錯覚をし、辛辣な言葉で攻撃をしていた時期がありました。

 

そうしなければ、自分の価値観が認識できなかった時期でした。

身勝手な考えは自分の中では「善」だったのです。

「こうしなければいけない」「そうでなければ生き残れない」なんて、考えて自分を鼓舞してました。

いま、思えば辛い日々でしたね。

「自分らしさ」を見失っていたのです。

 

今は、自分らしく生きることを優先にしようと思っています。

が、たまに、その頃の考えが頭を擡げて、自分を引き戻そうとすることがあります。

 

早朝の雪原で舞う丹頂を描きたいと思ってました。さすがに北海道までいけませんし、こんな写真は撮れません。イメージ通りの著作権フリー画像がありましたので、描かせて頂きました。

2羽の白鳥が舞う画像でした。やはり朝の雪原での画像です。白鳥が躍動する姿を描きたいと思い描きました。