己の「怒り」という感情を認識する

おはようございます。

ゴールデンウィークも終わりましたね。

私は、カレンダー通りの休日でした。

今年のゴールデンウィークは、前半は天候に恵まれない休日になってしまいました。ゴールデンウィークが雨というのも珍しいというか、私の記憶にはあまりありません。ですので、前半のお休みは自宅で本を読んだりして静かに過ごしました。

後半は天候も回復して、太陽が顔を出し気温も上がったので、猫の額ほどの庭の手入れを行いました。金木犀や椿の木の刈込作業や、モッコウバラの剪定作業を行いました。特に、金木犀は新芽が伸びて、樹高が2mを超えてしまいそうでしたので、樹高を抑えるために脚立に乗って、高いところの枝切りを行いました。この時期の剪定作業は若干遅いので、今年は花が咲くかが心配です。

 

◆連休明けの通勤電車は混んでいた

 

今年のゴールデンウィークは、行動規制も緩和されたので、行楽地への人の流れが戻ってきたようだ。イベントもいろんなところで開催され、多くの方が出掛けたようである。

新幹線の乗車率もコロナ禍前までは戻らなくても、かなり混雑したようである。

人が動くという事は、経済が活性化されることになるので、喜ばしいことである。

その思いとは裏腹に、また新型コロナの感染率が上昇するのではないかとも思ってしまう。

たぶん、多くの方がこの不安を抱いているのではないだろうか。

昨日の通勤電車は、だいぶ混んでいた。

乗客を眺めてみると、普段は乗らないような方も乗っていたように思えた。

今までは、人混みを避けて外出を控えていた高齢者夫婦の姿も見られた。

日常が戻りだしたのではと感じられた。

しかし、このように電車が混雑し始めるとトラブルも増えることになる。

 

◆電車に乗るときの私の心

 

先週、あるテレビドラマを観ていたら、「心はどこにあるのでしょう」という台詞があった。

その台詞に対して科学者役の女優さんの台詞は「脳の中にあるのではないだろうか。心は脳の中で起こる、ある事象に対するホルモンの分泌によって起こる生理現象だから」と言った返答であった。

それに対して、警察官僚役の男優の台詞は「心は体を構築している細胞にもあるのではないだろうか。」と言っていた。

つまり、脳の機能以外にも人間は体全体に心という感情を持っているというのである。

私は、このやり取りを観ていて、このドラマの原作を書かれた作家の思いを感じることが出来た。私が感じた事が作家の思いと同調しているかは解らないが、自分なりに感じることができた。

私は、自分は怒りっぽい人間だと自覚している。そんな自分を変えたいといつでも思っていた。だが、どのようにしたら怒りっぽい自分を変えることが出来るのかが解らなかった。

話を戻すと、朝、駅に着き電車に乗る前に思う事は、「出来れば座りたい」である。

わずか、30分足らずの時間なのだから、立って乗ってもそんなに疲れはしないが、「座りたい」と思ってしまう。

コロナ禍での通勤電車は、比較的空席な目立つことが多かった。

しかし、4月の下旬位から行動規制が緩和されたこともあり、8時前半の電車でもかなり混むようになってきた。座れない事も増えてきたのである。

電車に乗り込んで空席が無いと、ガッカリする。

比較的空席が多い優先席も空いていない時が増えた。

 

◆抑えられない「怒り」の感情

 

たまに、優先席に20代か30代の輩が足を組んで、携帯電話を眺めている場合がある。

そのような輩を見ると、私の心の中に「怒り」の感情が出てしまう。

感情だけならいいが、私は感情が抑えられないタイプなので、そのような輩を威嚇してしまう事がある。

例えば、足を組んで座っている輩の前へ立ち組んだ足が下せないようにしてしまう。

足を戻そうとすると、その足が私の足を蹴らなければ戻せないように立つのである。

座っている輩はそのことに気付き、足を戻そうとするが、戻すことが出来ない状態なので困ることになる。私は知らぬふりをして、外を見ている。

結構、足を組んだ状態で長い事座っているのは苦痛になることが多い。

私のこの行動は、混んだ電車の中で足を組んで座るという行為に対する「怒り」の現れである。

その時の私の心の中の感情は、「混んだ電車の中で、足を組んで座るなんてとんでもない行為だ。他の乗客も迷惑しているし、何よりもこの輩を許すことは出来ない。かといって電車の中で面と向かって注意をすれば他の客にも不快感を与えてしまう。ならば、無言で圧を掛けるこの方法がいい。」なんてことを勝手に思っているのである。

 

◆道を歩いていてぶつかってくる老人

 

昨日の朝、いつものように会社へ向かって歩いていたら、前方から私と同年代と思える輩が歩いてきた。歩き方が他の方と違うので、「これは何かあるな」と思いながら歩いていると輩はすれ違い様に歩いてくる人に対してぶつかって歩いているのである。明らかにわざとぶつかっているのである。特に携帯電話を観ながら歩いている若い人を中心にぶつかっているのである。

多分、この輩は携帯電話を観ながら歩いている若い方に対して「怒り」の感情があるのだろう。そして、その行為が許せないのであろう。

私は、この輩の気持ちが解らなくもなかった。私が電車の中で、行っていた行為と同じだからである。

しかし、私はその行為を目撃して別の感情が生まれた。

それは、滑稽におもえたのである。

その滑稽さは、その輩に対するものではなかった。自分に対してであった。

その輩の行動を見て、自分の行動が姑息極まりないことが解ったのである。

恥ずかしさは無かったが、虚しさは感じた。

自分の行っていた行為は、その感情をぶつけた人には伝わっていない。むしろ反感を買われていただけなのだ。

こんなことは解っていたのである。

しかし、自分の感情が抑えられず、電車の中で、足を組んで座っている輩へ対しての嫌がらせをしていたのである。単なる逆ギレオヤジだったのである。

 

◆自分の心の闇を知る

 

私は、いつの間にか自分を正当化することに鈍感になっていたのではないだろうか。

文章にすると、矛盾を感じてしまうかも知れないが、私の心は「自分を正当化する」ことが当たり前になってしまっていて、何も考えずに自分を正当化させていたのだと思える。

だから、電車の中で足を組んでいる輩が許せなくて嫌がらせをしたり、優先席に座る若者も許せなくなっていたのではないだろうか。そして、それを「怒り」として認識することも出来なくなり、自分勝手な正義に置き換えていたと思えるようになった。

もし、このまま気付かずに歳重ねていけば、私の心の闇はどんどんと膨らんで、私が気づかないうちに私を間違った考えに執着させ、単なる逆ギレ老人へと進化させてしまったと思う。そうなると私は意識することなく、自分の間違った正義を振りかざし、間違った行動を取り続け、とても嫌な老人と化していただろう。

年齢を重ねるという事は、経験を積んできたことでもあるが、自分の考えを固定してしまい新しい知識や間違って解釈している知識を変えようとしなくなるような悪い習慣をつけてしまう事もある。そして、その間違った習慣が心の闇と結託して間違った正義を振りかざすことになる。

 

そんな老人にはなりたくない。

だから、このブログを書くことにより、常に自分を見つめ、色々な知識を学び柔軟な老後を過ごすようにしたい。

 

今日も、当ブログに最後までお付き合い頂き、本当に有難うございました。