「7つの習慣」を読んで(その3)

月日が進むのは早いもので、今年もあと25日程になった。

12月になると、クリスマスのデコレーションが目立ちだし、街中のイルミネーションが華やかになる。今年もイルミネーションは華やかだが、新型コロナ禍の影響で、活気は今ひとつに感じられる。

 

かなり、感染者数は減って今年の年末年始は例年に近い活気が戻るかと思いきや、また変異種である「オミクロン株」が流行り始め、活気や景気を後退させ、不安の影を落とすことになった。

いつになったら、コロナ禍の恐怖から人類が解放されるのか全く予想がつかない。

 

しかし、我々人類は生きていかなければならないし、世の中を明るく出来るように努力をしなければならない。

現状を嘆いて反応的な思考に陥れば、明るい未来は望むことが出来なくなる。

 

「反応的思考」に囚われた

そこで大事なのは、自分自身が変わる事ではないだろうか。

まず、自分が変わらなければ、何も変えることは出来ない。

私たちは、常に何かに対して関心を持っている。私は健康や家族、仕事や社会情勢などに関心がある。そして、今は「オミクロン株」の感染状況に強い関心を持っている。

しかし、関心はあるが自分の力でコントロール出来る事と出来ない事がある。

例えば、健康については自分の健康を意識して、予防をすることで健康な身体を維持することは出来る。簡単なことでは外出から帰ったら、うがいや手洗いをする。外出時にはマスクをつける。人ごみを避ける。大勢での飲食は控える(外食産業の方には申し訳ないと思っているのだが)。

だが、自分でコントロールすることも影響を与えることも出来ない事もある。

「オミクロン株」が流行し始めたとの報道を目にすることが増えてきたが、「オミクロン株」の流行を止めることは出来ない。海外からの渡航者を入国制限させることも出来ない。

私にはそんな力は無いからである。

であれば、関心はあっても影響を与えることの出来ない事は諦めるしかない。

ならば、今自分に出来ることに時間とエネルギーを集中した方が良いのである。

 

「主体性」を発揮する

7つの習慣の最初の習慣は「主体性を発揮する」である。

手短に説明すると、「自分の人生に責任を持って、外の事項に影響されず、自分をしっかりと持って考え行動をするよう習慣づけよう」という事である。

言っていることは、至極御尤もなことであるが、実行するのはかなり難しい。

本書は、第1の習慣「主体性を発揮する」に、副題として「自己責任の原則」と謳っている。

つまり、先ほども書いたように、「自分の人生に責任を持て」と言われている。

私たちは、日頃何気なく自分の置かれている環境を見ている。例えば、電車の中で足を組んで横柄に座っている人や、同じく電車の中で化粧をしている人、大声で友人と楽しそうに話をしている人等。(ごめんなさい。世の中にはこんな人ばかりではなく、率先して席を譲る方や、きちんと座っている方も大勢いらっしゃいます)

そんな光景を見ている自分は、どのように感じているのだろうか。

どう感じるかをしっかりと認識することが大事であると本書では述べられている。

なぜかというと、人は同じものを見ても見かたや感じ方が違うからである。電車の中では足を組んだり投げ出して座ったりすると、他の利用客に迷惑になると感じなければ、足を組むことに何の抵抗もないだろう。

そして、私のように足を組むことに抵抗を覚える人間は、他人が足を組んで座っていることに嫌悪感を感じ、その人が他の人の事を考えない自分勝手な人と判断してしまう。

このように、世の中の事を自分のフィルターを通してみついるので、本当の事は解らない。

足を組む人が本当に自分勝手な自己中心的な人なのかは、もっとその人のことを知らなければ解らないかも知れないのである。

そして、その考え方の根本は自分の育った環境に大きな影響を受けているという事である。

私は、幼少期にかなり厳格な祖父に育てられた。玄関で靴を脱ぐときは必ず揃えて置くことや、新聞紙を踏んだり、畳の端や敷居を踏むと叱られた。

このような教育をうけたので、電車の中で足を組む人や、大声で話す人の事が気になり、そのような人を自分勝手と判断してしまうのかも知れない。

さすがに60歳を過ぎた初老になったので、あからさまにそのような人に注意をすることは無くなったが、過日、同じ位の年齢の方が電車の中で鼻をかまれて、そのティッシュを窓枠に置いたまま降りようとしたので、「忘れ物ですよ」と声を掛けたら、あからさまに嫌な顔をされた。

この声を掛けるか掛けないかは、私の選択である。

声を掛けずに、ティッシュが置き去りにされるのを無視出来れば、声を掛けることは無いだろう。

だが、私は声を掛けた。

自宅に帰って妻に話したら、「刺されるかもしれないからやめなさい」と言われた。

 

「選択」をする

人生には「選択」を迫られる場面が沢山ある。自分の意思でなくても選択をしなければならない時や、自分の意志で選択をするときと、人生は「選択」の繰り返しである。

この「選択」する際に、「A」にするか「B」にするかを決めるための材料が、自分の中にあるか、外の刺激から判断するかが大事だと本書は書いている。

そして、多くの人が外にある原因に囚われていると書かれている。

 

この続きは次回にしたいと思う。