定年後の職業探し
私の現在の職業は、「障害者一般就労指導者」である。
あまり、聞いたことが無いのではないだろうか。私も、最初は何をする職業なのか解らなかった。
この職に就くきっかけは、定年を機に新たな仕事がしたいと思ったからである。
61歳で、勤務していた会社を完全に辞め、新たな職探しを始めた。最初は何をしていいか解らず、アルバイト情報を検索して、興味のある職業にエントリーをしていた。エントリー時点で断られたり、履歴書を送付して断られたり、履歴書まで送付したのにその後音信不通になったり、採用はされたが自分には不向きなのではと辞退したりと、なかなか「これだ」という職業に巡り合えない時期を半年ほど過ごした。当然、この期間は無収入なので、生活は困窮していくばかりであった。
そこまで大袈裟ではなかったが、私自身が貧乏性なのか、働かないで家にいることに不安を感じたのである。
その間に、シール印刷用の用紙の製造をする会社や、特養、挙句の果ては寿司屋と、無作為に時給だけで判断して応募を繰り返した。
こんなチョイスの仕方なので、自分の性格やスキルとは無関係な職(例えば寿司屋)も選んで、1週間で辞めるようなことにもなってしまったのである。
定年後のアルバイト探しがこんなに困難だとは思ってもいなかったので、段々と焦りがでてきて、さらに自分に向いていない職業を選択して、短期間で辞めてしまうような事を繰り返してしまった。
家の中でもイライラしてしまい、しなくても良い口論をしたり、自分の殻に閉じこもったりと、すべてが悪い方向へとむいてしまった。
これではいけないと思い、とにかく働くことを優先しようと、時給は安いが自宅から近くて自分でも出来ると思った「清掃業」を選択して採用して頂いた。朝早くに現場へ出向いて、フロアの清掃を行う作業である。自分には合っているようで、楽しく作業をしていたが、体が悲鳴を上げてしまい残念ながら退職しなければならなかった。それが1年前の12月だったので「年内は止めよう」と思っていたとき、何気なく見た求人情報に募集があったので、ダメもとで応募したら採用されたのである。
何故、ダメもとと思ったのかは、この手の職業は資格や経験がないと採用されない事が多いので、あまり期待をしなかったのである。
入職をして
しかし、入職前の難関が待ち受けていた。この手の業界は、無給で体験就業をするようで、この施設も当たり前のように無給で2日間体験就労を要求してきた。今までの就職活動で、無給で就労体験をしたこともなく、まして、未経験の職業であり、障害者と仕事をしたことなど皆無だったので、これは難しいかと半分諦めてしまった。
しかし、就労体験をしてみると、障害者の素直な対応がとても新鮮で、是非この仕事をし
作業は、施設へ出向いて清掃作業をすることと、企業から依頼された梱包作業等を、利用者(施設を利用している障害者)に説明して、作業上の動向を見守りながら、作業や対応について指導をする仕事である。
利用者は軽度の精神障害や知的障害を持った方が殆どで、自分の事は自分で出来る方がばかりなので、彼らの身体介護はないのも就労には好条件であった。身体介護が必要な場合は、ヘルパーの資格などが無いと対応できないからである。
しかし、難しい事があるのも事実である。彼らは個性が強いので、私には解らない拘りや執着が出る場合がある。そんな時は、どのように対応をしたらいいかが解らなくなる。
つまり、一人ひとりの対応が、都度対応で臨機応変にできなければいけない事になる。同じ作業をして頂く時でも、同じ言葉で指導をしても通じない時があるので、利用者の性格や個性を理解しないとうまく指導が出来ないという事である。
しかし、私はこの点に大きなやりがいを感じている。
常に自分の「人格」を考える
彼らはある意味、とても純粋である。我々指導者の言う事は絶対になることもある。
ゆえに、「人格」をしっかりと持たなければいけないと痛感することがある。
こんな表現は誤解を招くだろうし、適切ではないかも知れないが、今まで関わりを持ってきた多くの方(一般に健常者と言われる方)なら、ある程度含みを持たせて説明を行ったり関わりを持っても、その方の裁量でうまく対応して頂けることが沢山あったが、彼らにはそのようなことは出来ない。しっかりと説明をしても、理解してもらえなかったり、解っていても出来ないこともある。
すると、どうしても作業を時間内に終わらせなければならなかったり、危険を回避させたり、仕上がりの状態をあるレベルにしなければならないので、時には厳しい口調で伝えなければならない事もある。
そんな時、自分の「人格」をしっかりと持っていないと、単に暴力的になったり支配的になったりしてしまう。
「本当に公正だったか」、「しっかりと相手のことを考えていたか」、「自分の感情だけで言葉を発してなかったか」と自問をすることがある。
かといって、彼らの事だけを考えて対応してしまうと、彼らを甘やかしてしまい、彼らに働くという厳しさを伝えることが出来なくなってしまう。
このバランスがとても難しい。何も無く1日が終われば充実した1日で終われるが、トラブルが発生すると、とても疲れるしストレスが溜まる仕事である。
私には天職かも
私の小学校の友人である年齢になって「自閉症」を発症した友人がいた。
彼とは小学校低学年の時、とても仲が良かった。その頃から、奇行があったことは覚えているが、小学校高学年位から通常学級での学習が出来なくなり、当時でいう「特殊学級」へ編入されてしまった。
彼が、「特殊学級」に編入されても、私は彼と親しく付き合うつもりでいたが、彼のご両親やお爺ちゃんから「もう、遊びに来ないで欲しい」と伝えられ、疎遠になってしまったことを覚えている。
「何故、一緒に遊んではいけないのだろう」と当時は思ったが、中学に進学する頃にはその意味がなんとなく理解出来た。
彼は、養護学校に進学し、私はとは全く別の人生を歩むことになり、近所でありながら殆ど顔を見ることが無くなってしまった。
そして、養護学校を卒業した後、ある会社へ障害者枠で就職したらしく、友人から毎日、自転車で通勤をしていること、帰りにビールを1本買って帰り、自宅で飲んでいることを聞いた。その頃、私は神奈川に引っ越してしまい、彼とは殆ど会う事もなかった。
ある日、友人から電話があり、その友人が亡くなったことを聞かされた。葬儀に参列することも出来ず、墓参りに行くこともしていない。
また、私の父親がうつ病になり、私が12歳の時に自殺をしてしまった。
小学校4年生の時から、入退院を繰り返していたが、残念ながら寛解することも無く苦しみながら亡くなってしまった。
その時、私は父親に対して「もっと接してあげればよかった」と後悔したことを覚えている。
今なら、ある程度、症状を抑える薬も開発されているし、世間の目もだいぶ違うが、当時はまだまだ認知されていない状況で「気ちがい」と言われていた。
私は「気ちがいの子」とは言われたことは無いが、家の中が暗い雰囲気で家にいるのが嫌だったことも覚えている。
こじつけかもしれないが、定年後に障害者と一緒に毎日通うのが精神病院なのである。病院の清掃を彼らと一緒に行い、患者と会話をすることは、自分の運命なのだろうかと考える。
であるなら、この職業を天職として仕事が出来るうちはやり通そうと思っている。