こんにちは。
今日は3月16日の土曜日。
時間は13時30分。
今日は快晴です。気温も高くなり、手元の温度計は20℃です。
段々と春になるのでしょうか。
近所を散歩すると、木々や花壇に花が咲いているのが目につきます。
日も長くなり、朝6時には明るくなってきています。
3月と言えば卒業シーズンですが、今年もちらほらと袴姿の方を見かけることがありました。
また、このブログのタイトルとなっている東日本大震災が13年前に発生したことも忘れる事はできません。
その日、私は営業で郵政株式会社の近所の喫茶店にいました。
14時からのアポイントで、担当の方と商談を済ませ、次の訪問先のアポイントまで時間があったので、虎の門の喫茶店に入ったのです。
時間は14時30分頃。
確かドトールコーヒーだったと記憶しているのですが、注文した商品を受け取り地下のテーブル席へ移動して、落ち着いた時でした。
いきなり大きな揺れが始まり、殆どの客が席を立ち地上へと逃げ出しました。
私は連れと一緒で連れは慌てて外へ行こうとしたので、この時点で飛び出すのは危険だから、暫く様子を見ようと伝え席に留まりました。
私が座った後ろの壁に非常用の鉄の扉があったのですが、その扉がギシギシと大きな音を発てて軋んでいました。暫くするとまた同じような大きな揺れが起こり、これはまずいとも思ったのですが、誰もいなくなったフロアでじっとしていました。
電気が消えたり、天井が落ちるようであれば批難しようかとも思いましたが、やみくもに外へ飛び出す方が危険かと思い、その場でじっとしていました。
揺れが収まり、ほっとしていると店員が来て、「度胸ありますね。誰もいませんよ。」と言って笑って話しかけてきました。
そして、隣のテーブルにあるコーヒーやケーキを下げながら、「もう、戻ってこないですよね」と言っていたので、「もしかしたら、戻ってくるかもね」と返答した事を覚えています。
なぜなら、隣のテーブルにいたのは30代の女性3人だったからです。
連れは、戻ってこないと言っていましたが、15分位過ぎてちゃっかり戻ってきました。
外に出たようですが、大勢の人であふれていて、歩くのも困難な状態と話してくれました。
確かにすごい揺れだったので、パニックになった人が飛び出したんだろうと思っていたのですが、一休みして外へ出て驚きました。
まず、歩道だけでなく車道にまで人があふれていて、多くの人がヘルメットを被っているのです。
ビルと歩道の間に隙間が出来ていることに気付き揺れがすごさを感じました。
一番驚いたのは、ビルの窓ガラスが割れていた事です。
どれだけ凄い揺れだったのかが解りました。
私は運よく地下に居たので、それほど揺れを感じなかったのかもしれません。
連れに言わせると、全く動じていなかったと言っていました。
取りあえず、次のアポイントが銀座だったので、銀座まで歩くことにしました。
歩いている時も余震が起こり、その度に電柱や電線が揺れ、軽い悲鳴が聞こえていました。
銀座の訪問先は飲食店でしたが、お客様は殆どいない状態で、フロアには割れたお皿やグラスが散乱していて、営業の出来る状態ではありませんでした。
そんな状態だったので、お見舞いだけ言って早々に店を出て、新橋駅へと向かいました。
歩いている途中で、連れが携帯電話から自宅へ電話をしたのですが、携帯電話が繋がらない状態だったようで、何度も電話をして、やっと繋がったことを覚えています。
私は、公衆電話を探して電話をすることにしましたが、目立つ場所の公衆電話は長蛇の列が出来ていて、諦めてしまいました。
当然、電車は運転を取りやめていたので、駅も人であふれている状態でした。
銀座から有楽町まで歩いて、レンタカーを借りようと思ったのですが、すでにレンタカーは無い状態になっており、この後の行動を考えなければなりませんでした。
私は連れに、少し早いけど夕飯を食べようと言って、営業しているレストランへ入りました。
レストランも人がいたのですが、席は空いていて座れたので、注文をして夕食を取りました。
レストランに入った時間は5時頃だと思います。レストランを出たのは7時過ぎでした。
どこへ行っても人だらけだったので、下手に動くよりはその場にいた方が得策と思ったのですが、レストランも7時で閉店すると言ってきたので、仕方なく出ることにしたのです。
お腹の心配は無くなったので、落ち着き先を探して、有楽町の交通会館へ向かいました。
交通会館を選んだのは、地下鉄が集中していることと、館内放送が流れて状況が解りやすいのではないかと思ったからです。
予想は的中して、場内放送で電車の運行状況がアナウスされていました。
そうは言っても、1階のフロアは人だらけで座る場所もままならなかったので、地下に降りて、階段の踊り場に陣取りました。
連れに言って、ゴミ置き場から段ボールを持ってきてもらい、ついでに新聞紙も物色してくれたので、誰も来ない地下階段の踊り場で過ごすことにしました。段ボールと新聞紙は思ったより暖かく、また地下の踊り場だったので直接に外気が流れ込むこともなく、快適に過ごすことが出来ました。
連れは、「1人じゃなくてよかったです。まして、食事も出来たし落ち着き先まで確保できたのですから、ほんとによかったです」と言っていました。9時過ぎ位から場内放送が頻繁に流れ、地下鉄の運転再開が知らされました。
連れは、奥さんが臨月だったので、頻繁に自宅へ電話連絡をしていましたが、自宅は問題なかったようで安心していました。
11時頃に連れの家に帰れる電車が動きだした場内放送が流れたので、連れには帰ってもらい、その後は1人で朝まで過ごしました。
段ボールだけだったので、体は痛くなりましたが、足を伸ばして横になっていたので、疲労は感じませんでした。
翌朝の6時頃、路線は全く違いましたが、新宿までの丸の内線と小田急線が動きだしたので、自宅へ帰る事が出来ました。
私が自宅に就いたのは9時過ぎでしたが、多分、帰宅は早かったと思います。
自宅に帰ってテレビを付けると、震災の報道番組だけが、各局で流れていました。
宮城や岩手、福島、茨城で津波の被害でとんでもない惨状になっている映像や、帰宅難民と化した人が、自宅を目指して歩いている映像が流れ、コマーシャルはACのCMが流れていました。
私は、本当に幸運だったんだと思いました。
震災後のコンビニは商品が無く、夕飯を食べることも出来ない方が沢山いたらしく、空腹を堪えながら歩いている人達は大変だったろうと思ってしまいました。
津波により、多くの方が無くなり、また住んでいた家が流され地獄絵をみているようなテレビ映像は今でもはっきりと覚えています。
さらに、福島県の原発事故により、住む場所を追われ、飼っていた家畜の牛、ペットの犬や猫を置いて批難しなければならなかった人々の辛く悲しい思い。
今でも忘れられませんし、忘れてはいけない事と思っています。
自然の力の恐ろしさを、まざまざと見せつけられたのです。
その後、電車がきちんと運行できるまで、自宅待機を続け、半月位は仕事が出来なかったことを覚えています。
会社でも東北地方の支店や茨城の支店では、被災して家屋が無くなってしまった方や、家族を失ったかたもいました。
13年が過ぎ被災地は復興が進み、当時の面影もなくなり、地域は様変わりをして新しい生活が始まっていますが、被災をされた方々の辛く悲しい思いは決してなくなる事が無いでしょう。
福島の原発に関しては、多くの風評被害を招き、悔しく悲しい思いをされた方々が沢山いました。
住み慣れた土地を手離し、新しい土地で生活を強要された方々の苦労は計り知れない物だったと思います。
そして、今年1月1日の夕方、能登地方を大きな揺れが襲いました。
津波、火事と甚大な被害が発生し、多くの方が家族を亡くし、家を無くし、寒風の中に放り出されてしまったのです。
本来であれば、正月の夕餉を家族や親戚と楽しく過ごすはずだったのに、一瞬にしてその団らんは奪い去られてしまいました。
日本は地震大国です。
いつ、地震により自分の日常が奪われるかは解りません。
誰を恨むことも出来ず、無我夢中で今を乗り越えていかなければ、現状を変えることが出来ない日々。
私は、本当に幸運だったと思っています。
だから、地震に被災した時は慌てずに自分の立ち位置を見つめ、何が出来るかを考え、ひとつずつクリアしていくことの大事を忘れないようにしたいと思います。