65歳の生涯を振り返ってみる(独身時代)

お早うございます。

 

今日は12月10日の日曜日です。

時間は午前5時50分です。

今年は暖冬と言われていましたが、この2日間の昼間の温度は10月下旬の気温で、最高気温が20℃位まで上がっています。

やっぱり暖かいですね。

 

今回は私の独身時代を振り返ってみたいと思います。

高校を卒業し1年浪人しましたが、希望の大学への進学を家族から猛反対され、学費援助も望めなかったので断念しまして、専門学校へ進学することにしました。

学費はアルバイトで貯めたお金を入学金に充て、東京でのアパートの敷金等も何と支払う事が出来たのです。

友人に頼んで、荷物を自宅からアパートまで運んでもらい、謝礼は夕飯で勘弁してもらいました。

1人暮らしの始まりです。

専門学校ではグラフィックデザインを学びました。

カリキュラムはかなり幅が広く、レタリング(活字と同じように文字を描く技術)から、アイソメトリックイラスト(機械の分解図を立体的に描く技術)写真をイラストで表現する技術など、表現するための技術を習得するカリキュラムでした。

毎日のように課題が出され、アパートへ帰ると課題制作をする毎日でした。

その時のアパートには、机、冷蔵庫(小型)ラジオ、電気ストーブ、一口コンロ位しかありませんでした。

テレビは無かったのです。

もっとも、テレビを観ている時間はありませんでした。

日曜日はアルバイトに充て、平日でも時間を作ってアルバイトをしていました。

アルバイトは、ある印刷会社の雑用です。

デザイン系の仕事に就きたいと思っていたので、印刷知識も必要と学校でアドバイスをもらい、印刷会社での夕方からの作業をしていました。

若かったのと志があったので、疲れを感じることもなく、毎日が楽しくてとても充実をしていたことを覚えています。

そんな充実した生活をしていたのですが、お金が無かったことと炊事をするのが面倒で、まともな食事を摂っていいなかった事が祟り、栄養失調で病院に行ったことがあります。

通学で電車に乗っていたら、急にめまいが始まり電車が回りだしたのです。

何だろうと思い、思わず座り込んでしまいました。最寄りの駅で下車して、駅員に声を掛け救急車を呼んでもらい、そのまま病院へ。

診察を受けたら、軽い栄養失調と睡眠不足による眩暈と診断され、ブドウ糖や栄養剤の点滴を受け、アパートへ帰ったことがありました。

当時の体重は49Kg程度だったと思います。

やっぱり若くても、食べることと寝ることをさぼると体は反発してくるのですね。

それからは、粗食でも米を食べ、野菜と肉か魚を食べるように心掛けました。

夏になれば学校は夏休みになりますから、その期間は終日アルバイトに明け暮れました。

課題もあったので、日曜日は課題を作成する日に充てました。

お金が無いので、極力出掛ける事を避けアパートで過ごすようにしていたのですが、中野と蒲田に友人がいたので、月に数回は食材を買って、友人のアパートへ押しかけて3人で食事をしていました。

お金のない者通しが集まるのですから、たいした食事は出来ませんでしたが、惣菜屋で揚げ物を買い、田舎から送られた米を炊き、インスタントの味噌汁で食事をし、ビールを飲んで騒いだことを覚えています。

用事もないのに歩いてサンプラザまで歩いていき、サンプラザの前で時間をつぶしたことも懐かしい思い出です。

 

学校を卒業して私は郷里に戻り、中学の時の美術の先生が教職を辞めて働いていたデザイン会社に就職をしました。

その会社は社員の募集をしていなかったのですが、履歴書を持って押しかけ無理やり採用を勝ち取ったのです。

何と無謀な事をしたのでしょう。

これも若さと情熱が成し得た行動だったのです。

しかし、現実は厳しく1日の殆どを会社で過ごすようになり、挙句の果てに胃潰瘍になってしまい、会社を辞めなければならなくなってしまいました。

今、あんな働き方をさせたら、労働基準監督署から指導が入ってしまいますが、当時は当たり前でした。

会社から家までは自転車で10分程度だったので、夜中でも帰ることは出来ましたし、社長も平社員も殆どが夜中まで働いていましたので、会社の経費で夜食を食べて、自宅へは4時頃に帰り、11時位に出社するという広告宣伝業界あるあるの生活でした。

私は、学生時代に学んだアイソメトリックイラストの作成を担当するようになり、精密版下と言われる、電気製品の顔となる部分(アンプやラジオの全面のボリュームやチューニングメモリなどを印刷するための版下)の作成をしていました。

その版下の許容範囲が10倍で作成して、許容誤差がプラスマイナス0.5mmという厳しさでした。

アイソメトリックイラストは、発売前の商品が支給され、その商品の全景図と分解図を描き上げる仕事です。

デザイナーになりたかったのですが、与えられた仕事は技術屋と同じでした。

さすがに、この厳しい仕事に耐えられなくなり、胃潰瘍になってしまい、医師から入院を宣告され、社長も退職を承諾することになったのです。

幸い、手術をすることだけは免れましたが、その後、半年ほど通院で定期的にレントゲン検査を受け、仕事に就くことが出来ませんでした。

 

その後、暫く自宅療養をして就職活動をしたのですが、なかなか職が決まらず仕方がなくまた上京することを決めたのですが、なぜか東京ではなく横浜に住むことになりました。

その理由は、次回に振り返る事にしましょう。

 

薔薇の花2輪を描いてみました。何気ない薔薇でしたが、2輪の薔薇が寄り添って咲いているところがいいなと思い描いてみました。