こんにちは。
今日は12月16日の土曜日です。
時間は13時45分。
今日は季節外れの暖かさです。
気温は22℃だそうです。
10月並の暖かさですよね。
予報では、明日は最高気温が15℃となっています。
今年の天候は異常ですよね。
夏は猛暑で雨が少なく、秋がとても短く、急に寒く成ったかと思えば、今日のように異常に暖かい日がある、と落ち着きがありません。
では、本題に入りましょう。
デザイン事務所の業務で体を壊してしまった私は、知人の紹介である印刷会社に就職することになりました。
学生時代にアルバイトをしていた経験があるので、すぐに採用が決まりました。
配属されたセクションは、レタッチセクションです。
現在の印刷環境では、デジタル化によりレタッチという工程は無くなってしまいました。
その当時は、版下をフィルム撮影し、4色の色に併せて、4枚の印刷用のフィルムを作成するのでした。
細かい説明は専門的になってしまいますので省きます。
その会社は冷暖房の設備が無く、冬は石油ストーブで暖を取り、夏は扇風機で暑い風をかき混ぜていただけでした。
作業中はTシャツと半パンという、考えられない格好で仕事をしていました。
その会社のクライアントはスーパーマーケットが多かったので、チラシの印刷が殆どでした、
工程は細かく分けられており、写植といって文字を打つセクションや、版下を作成するセクション。印刷機を回すセクション、製本や梱包を担当するセクションと、かなりの社員が働いていました。
昼休みは、食事が終わった後、近くの公園でキャッチボールをやったりして、楽しく過ごしていました。
しかし、あることがキッカケとなって、その会社を辞めることになり、次に就職したのも印刷会社なのですが、その会社ではデザインやディレクションの仕事を担当しました。
メインクライアントは、大手音響電気メーカーでした。
私は、28歳からクラアントへ出向に出され、クライアントの技術者と仕事をすることになったのです。
そこでの仕事は、クライアントの技術者と協力して、発売される商品の取り扱い説明書や技術マニュアルの原稿を作成する仕事でした。
発売前の商品を分解したり、故障のした時の修理方法や回路図に必要事項を記載するため、商品を動かしながら電圧を測定したり、わざと斑過電圧を流し、どの部品が故障するかなどを検査していました。
この仕事は10年程続けていました。
10年目に、その会社の要職の方に声を掛けて頂き、その会社の海外の工場に出向するように、勤務していた会社に働き掛けて頂きました。
所属していた会社は、メインクライアントからの依頼なので断ることもせず、私をマレーシアとシンガポールに出向させてくれました。
マレーシアに、クライアントが懇意にしている会社があり、その会社に出向と言う形を取って頂き、その会社の準社員としての身分と今までの日本の会社の社員と言う身分を持つことになりました。
その時の勤務体系は、マレーシアとシンガポール、香港、日本を定期的に移動して、業務をマネジメントするという業務でした。
シンガポールやマレーシアでは英語でのコミュニケーションがメインでしたので、最初はだいぶ苦労したのと、移動が頻繁だったので、パスポートがすぐに入出国のスタンプで一杯になってしまい、空港のイミグレーションで不審に思われ、長時間尋問を受けた事もありました。
何故、私がこの業務を着任したのかというと、当時、デジタルによるドキュメントの作成が始まって、アップルのマッキントッシュが印刷業界でも取り上げられるようになりました。
私は、早くからコンピュータによるドキュメント作成やイラストの作成に興味を持っていたので、コンピュータの知識があったので、クライアントの要職の方が推薦してくれたのです。
個人的にマッキントッシュを使ってデザインや編集作業をしているデザイナーやエディターと交流を持ち、アップルやアドビのエンジニアとも情報交換の出来るパイプを作っていたのです。
さすがに、スティーブ・ジョブスと会う事は出来ませんでしたが、当時のアップルのCEOだったジョン・スカリーとは面会するチャンスがありました。
それで、マレーシアやシンガポールで活躍することが出来たのです。
しかし、私がメインで所属していた印刷会社が業績不振に陥ったため、今度はマッキントッシュやデジタル機器を駆使した編集プロダクションの制作セクションの部長待遇で転職をしました。
この会社は大日本印刷や凸版印刷、共同印刷といった大手印刷会社や集英社や講談社名の大手出版会社をクライアントに持つ会社でした。
24時間体制で出版用の版下データの作成や写真集のデータ作成をメインに受注していた会社です。
さらに、私が入職して半年後に、デジタルオペレータ養成スクールを開校して、その会社で受注した業務を自宅で作成して頂くという業務形態を確立し、会社の規模を拡大せずにスタッフを増加させるという業務形態を構築したのです。
私は、そのスクールの校長を兼務するようになりました。
さらに、時差を有効に使う事を考え、ある会社と合弁でハワイに現地会社を立ち上げました。
ハワイにいる日本人の方と契約を結び、文字入力やデジタルイラストの作成をハワイで行って頂き、通信技術を駆使してデータを日本に転送するというスキームを確立したのです。私も、立ち上げ時はハワイに常駐し、現地スタッフの採用や事務所の設置など、業務が軌道に乗るまでハワイで過ごしました。
事務所はアラモアナショッピングセンターの近くで、オフィスからはハワイの海が見えるという最高のロケーションでした。
しかし、ハワイは仕事で行く場所ではなくバケーションで行くべきですね。
30代から40代は、国内と海外を半々位で往復していました。
当時、多くの方から「そんなに海外へ行けていいね。羨ましいよ」とよく言われましたが、私は観光をしたことは一度もありませんでした。
しかし、その会社も業績が向上して、あるとき、関連会社を招待してパーティーを開いたのですが、その席である取引先の社長が、「この会社の業績が伸びたのは社長の力ではなく、ある社員の功績のおかげだ」とスピーチをしたため、私は社長から離れたセクションに移動になり、今迄のポジションからすべて外されてしまいました。
挙句の果てには、表だっては言われませんでしたが、退職勧告に近い仕打ちを受けるようになり、やむを得ず退職することになりました。
幸い、私の功績を評価してくれる方がいて、新しい会社を立ち上げるので手伝って欲しいと言われ、その会社に役員待遇で移動することになりました。
今日はこのくらいにしておきましょう。