己を知れば「怒り」は減る

お早うございます。

5月は「五月晴れ」のイメージがありましたが、今年の5月は「梅雨」を思わせるような鬱陶しい雨の日が続いてしまいました。

沖縄は早くも「梅雨入り」をしたようです。

 

◆「怒り」を学ぶことを決める

 

私は、自分が怒りっぽい性格であることは承知していたのですが、何故、怒りっぽいのかを知ろうとはしませんでした。

「怒り」という感情を学ぶこともしませんでした。

というより、「怒り」について学ぼうなんて思ってもいませんでした。

 

しかし、定年を迎えて新しい職業に就いて、他人からあからさまに理不尽な「怒り」をぶつけられ、ひどく傷ついたのです。

今まで、「怒り」がこんなに人を傷つけるとは思ってもいませんでした。

そのくせ、自分は周りに「怒り」をまき散らしていたのです。

何と嫌な人間だったのでしょう。

 

そのことに気付いて私は「怒り」を学ぶことを決めました。

現代は、とても便利になっています。自宅に居ながら、色々な方から「怒り」を学ぶことができるのです。

私は、YouTubeを使い「怒り」で検索をして、「怒り」の動画を見ています。

 

以前は、検索サイトで「怒り」で検索をして、ブログなどの記事サイトも閲覧したのですが、今はYouTubeを使っています。

何故、YouTubeを使っているかというと、動画は目が疲れないし、再生速度を1.5倍にすれば、同じ時間で多くの動画を見ることができるからです。

ブログを読むと目が疲れますし、読むのに時間もかかってしまいます。

なので、YouTubeを活用しています。

 

ちょっと、話題がずれてしまいました。

 

YouYubeで「怒り」と検索すると沢山の動画が検索されます。

有名なYouTuberの動画も検索されていました。

私は、出来るだけ沢山の動画を見ようと思いました。

何故なら、動画を投稿されている方は、自分の思いやこだわりを持って動画を作成されているので、おっしゃっていることが微妙に違う事が解ったからです。

 

まだ、全ての動画を見たわけではないのですが、「怒り」は「感情」であることが解りました。

「えっ。何をいまさら」と思いますよね。

でも、ここから理解をしないと「怒り」を知ることはできないと、私は思ったのです。

そして、「怒り」は「本能」なのです。

だから、生きるために必要な「感情」なのです。

さらに、「怒り」は人間だけにある感情ではなく、動物は全て持ち合わせている「感情」なのです。

 

◆「怒り」は二次感情

 

動物(人間も含む)は、生存するために「怒り」という感情を持つようになったようです。

しかし、「怒り」は単独で発する感情ではなく、最初の感情が変化して「怒り」になるそうです。

 

私が「怒り」を感じるのはどのような時だろうと考えてみました。

すると、次のような場面が浮かんできました。

まず、最初に浮かんだのは「自分の思い通りにならなかった時」です。

誰かに何かをやってもらおうとして、やってもらいたい事をお願いしたが、その結果が自分の思った通りにならなかったとき、「怒り」が込み上げてきた経験がありました。

なんとも、身勝手ですよね。

このような感情の変化による「怒り」が自分自身の中に起こっているとは感じてはいましたが、認識をしていなかったのです。

つまり、自分が怒っているという「自覚」が欠落していたのです。

「感情」が先行し自分を見失っていたのと、いつも誰かにしていたことが浮き彫りになったわけです。

「怒り」の一次感情には、「悲しみ」や「過度な期待」があります。

「悲しみ」も「過度な期待」も、自分が勝手に持つ「感情」で、相手は私を満足させるために行動をしている訳ではないという、基本的なことを見落としているのです。

そして、勝手に「自分の思い通りに対応してくれなかった」という思い込みが「悲しみ」や「過度な期待」を達成できなかったと判断し「怒り」変わってしまったのです。

 

◆人は自分のために生きている

 

何かを依頼して、その目的が達成できなかったことは、その方のスキルに大きく影響します。しかし、依頼をした私は勝手に、その人なら出来ると思い込み依頼をしているのです。

つまり、感情の一方通行なのです。

この思いを私が受ける立場だったら、「たまったもんではない」と思うでしょう。

そして、「怒り」の感情を一方的にぶつけられたら、「怒り」で反発するか「委縮」してしまうかでしょう。

それなのに、私は勝手にお願いをした方は私のために必ず、依頼したことを期待通りにやり遂げてくれる、もしくは期待以上の成果を上げてくれると思っていたのです。

だから、出来ないと「悲しみ」の感情が現れ、「怒り」という二次感情で接してしまったと思えます。

 

私も含め「誰かのために生きている」のではなく「自分のために生きている」のですから、誰かに強制されて、何かを成し遂げるわけではないのです。

人間には「承認欲求」があるので、誰かに認められたいという思いはあるのですが、出来なかったからと言って、「怒り」をぶつけられることはないのです。

 

このように、「怒り」の理由を知る事や、人の感情を知ることで、無駄に「怒り」をぶつけることは減るのではないでしょうか。

自分は、自分のために生きて、相手の欲求を達成させるために生きるわけではない」と思い、逆に考えれば、「相手も自分のために生きて、私の欲求を満たすために生きている訳ではない」と思えば、「過度な期待」や出来なかった事の「悲しみ」は減るのではないでしょうか。

 

こんな基本的なことが、60年以上を生きていたのに、きちんと考えた事が全くとは言わないまでも、しっかりと考えたことがありませんでした。

 

今後も、「怒り」をしっかりと学び、自分の気持ちを穏やかにした日々を過ごせるように努力をしていきたいと思っております。

 

 

『追記』

上記の記事は、私が個人的に感じて思ったことです。

学問の観点やそのたの知識にそぐわない表現が沢山あると思います。

若しくは、間違った表現もあるでしょう。

あくまでも、個人の表現としてお読み頂ければ幸いです。