人を褒める

お早うございます。

 

今日は、11月6日の月曜日です。

ブログを始めて1年が経ちました。

週1回の投稿ですので、投稿本数は48回位です。

毎週の日曜日の朝は、ブログの原稿を書くという習慣がつきました。

継続することを目標にしてきましたので、これからも続けて行きたいと思っております。

 

さて、今日は「人を褒める」について、書いて行きたいと思います。

私の人生でどれだけ人を褒めた事があっただろうかと考えました。

人を批判したり、批難することはあっても、褒めた事はあったのだろうかと、思ったのです。

多分、褒めたこともあったとおもいますが、褒めた事はあまり覚えていないのかもしれません。

 

日本人は褒めるのが苦手

 

このタイトルは如何なものかと思えますが、私の独断と偏見で書かせて頂きます(と言うより私の事が殆どです)。

まず、日本人は褒めるのが苦手な人種ではないだろうかと思えるのです。

というのも、日本人は恥ずかしがり屋が多い人種なので、自分の感情をあまり出すことが無いように思えます。

また、下手に褒めると相手が素直に受け取って頂けないで怪訝な表情をされたり、場合によっては何か下心があるのではと思われたりと、褒められたほうも素直に喜べないことがあるのではないでしょうか。

流行りの「Z世代」の方々は褒められると素直に喜ぶことが出来るようになってきたように思えるのですが、我々のような「X世代」は褒められ慣れしていないので、褒められるとどのように反応していいか解らなくて戸惑ってしまうと思います。

要するに自己表現が苦手なんでしょうね。

これには、教育が大きな影響を与えているように思えます。

私の幼年期を思い出すと、人と違ったことを言ったり、違った行動をすると批判を受けた記憶があります。

というのは、小学4年の時に絵画展に出品するために図工の時間に写生をしていました。

私は、学校で飼っていた鶏を書いていたのですが、鶏を描いていたとき学校でも変わり者で評判の先生が私の側を通りかかった際に、

「面白い物を題材にしているね。」と言って、私の絵を覗き込みました。

私は、鶏の躍動感を出したくて、三日月のような形で鶏を描いていたのです(頭は赤い鶏冠を強調して、目と嘴を鋭く書いていました)要するに、写生というより鶏をデフォルメして書いていたのです。

その先生は、美大を卒業されて教職免許を取得し教師になられた方だったので、田舎の小学校には馴染めなかった先生だったのです。

しかし、その先生は私の絵を見ると、隣の立ち止まり、いろいろとアドバイスをしてくれました。それどころか、絵筆をとって、「こんな感じで光の方向を考えて書いてみなさい。」と添削までしてくださいました。

そのちょっとした添削で私が書いていた鶏は、大きく変化しました。

私は嬉しくなって、その先生のアドバイス通りに絵を描きあげ提出をしました。

その先生は、去り際に「絵は自由に書いていいんだよ。自分が見える世界を自分の思い通りに表現しなさい。あなたは才能があるかもしれないね」とおっしゃってくれたのです。

この言葉が嬉しくて、その鶏の作品を堂々と提出したのですが、残念ながら担任の先生からは酷評を頂きました。

また、クラスの人からも「鶏はそんな三日月のような形はしてない」とか「鶏は白だよ。灰色はしていない」と酷評を受けた事を覚えています。

私の書いた鶏は、背中の部分は白いのですがお腹のあたりは灰色で書いていたのです。足も暗い黄色で書かれていたので、そのように言われたのでしょう。

要するに田舎の小学4年生には表現できないような絵だったのです。

結果、その絵は展覧会に出品されることもなく、学校内でも展示されることもありませんでした。

担任の先生は写実的な表現を好まれる先生だったようで、美術を専攻された方ではなかったのでしょう。

この件を機に、私は絵を描くのが嫌いになってしまいました。

このように、日本人はどちらかと言うと人と同じ事をしていると褒められ、人と違ったことをすると批難される傾向があると思います。

 

母親は褒め上手

 

私は家族の中で、褒めるのが上手なのは母親ではないかと思えます。

特に赤ちゃんを育てている母親は褒め上手だと思えます。

赤ちゃんが笑えば、嬉しそうに褒め、泣いても元気だと褒め、お乳を飲めば沢山飲んだと褒める。

とても素晴らしいことです。

赤ちゃんが愛おしくて可愛くて、大事に守ってあげたいという気持ちが、赤ちゃんを褒めるという行動に繋がっている。無償の愛情からでる表現なんだと思います。

伝い歩きが出来るようになれば、本来であれば手が掛かりだして、目が離せなくなって大変だろうがお母さんは褒めます。

喋るようになっても、ご飯をたべるようになっても褒めます。赤ちゃんも褒められると嬉しいので、一生懸命に歩こうとしますし、ご飯を食べようとします。

私は、こんな親子の光景をみるのが大好きです。褒められて育った子は素直な子が多いような気がします。

それは、たまにはいたずらをしたり反抗することもあるでしょうが、成長している証です。

そう思えば、褒めるまではしないでしょうが、認めることは出来るのではないでしょうか。

残念ながら、わたしにはできませんでした。

 

褒めるから始める

 

私の母親はあまりほめ上手ではありませんでした。褒めることもしなければ叱ることもありませんでした。

母親に叱られたことで、今でも覚えていることは、母親の財布からお金をくすねた事です。母親は烈火のごとく怒りました。はっきり言って感情的な怒りをぶつけてきました。

その時、普段は何も言わない父親が「成長した証だ。やったことは悪い事だが、欲しかったものがあったんだろう。頭ごなしに怒るんじゃなく、まずは話をきいてやれ。怒るのはいつでもできる」と言ったことでした。

これは褒められたことではなかったのですが、自分が認められた。1人の人として扱ってもらったように思えたのです。

なぜか、嬉しくて泣いてしまったのを覚えています。

父親も褒めることは苦手な人でした。と言うより父親自身が褒められて育った人ではなかったのです。祖父は厳格で厳しい人でしたので、長男として生まれた父親を幼少期から厳しく育てたようで、自分の考えを主張することも許されなかったようです。

なんでもできて当たり前だったようで、出来ないと厳しくとがめられていたと聞きました。

私も、祖父からはそんな教育をされた思いがあります。

 

私は、まずは褒めることから始めることが大事ではないかと思う事があります。

自分が褒められなかったからかもしれませんが、どうしても否定から考えが始まってしまうのです。

褒めるって、ある意味「肯定」ですよね。人は否定されるより、肯定された方が嬉しいです。

褒められれば頑張ろうという気持ちも起こります。もし、何かしら間違った考えを持つこともあっても、自分はこんな風に考えるんだけどと他人に話すことが出来る人になると思うんです。しかし、叱られてばかりいる人は「どうせ言ったって聞いてくれない。だったら言うのをやめよう」という思考になって、自分を表現することを辞めてしまう。

そうなると、どんどんと褒められることが無くなってしまう。

自分だけの殻に閉じこもってしまい、自己表現が出来なくなってしまい、間違った考えに固執したり、犯罪に手を染めたり、最悪は自殺をしてしまったり。

 

この文章はあくまでも、私の私見ですので正しい表現になっていない事も書かれています。