「死」を考えてみる

お早うございます。

今日は、10月2日の土曜日です。

時間は午前3時29分です。今日は快晴のようで、空を見上げると星がはっきりと見えました。

彼岸も過ぎ10月になったのですが、日中の暑さはまだまだ続くようで、今日も30℃になるという予報が出ています。

今日は「死」について考えてみたいと思います。

 

「死」とは

 

私が「死」を意識し始めたのは、かなり幼少の頃からと記憶しています。

多分、小学校の低学年くらいから意識し始めたのではないでしょうか。

私の出生地は割と田舎でしたの、当時は祖父母、両親、兄弟と暮らしていました。

確か小学校3年位だったと思いますが、突然、祖母が倒れ医師を呼んで(当時は救急車などありません)、看取りをして頂くだけでした。

祖母は現在の病名で言えば「脳梗塞」か「脳卒中」だったと思います。

大きないびきをかいて意識が無いまま、半日程度で心停止になってしまいました。

医師は、血圧を測るだけの処置しかしなかったように記憶しています。

多分、当時の田舎では当たり前の対処だったのでしょう。親戚の叔母も同じような最後を迎えたように記憶しています。

つまり、さっきまで元気で歩いていた人が急に倒れて、1日後には「死」を迎える様子を自宅に居ながら、見ることが出来たのです。

祖父は癌に置かされていたので、入院をして手術を受けましたが、最後は自宅へ戻ってきて息を引き取りました。

午前3時頃に亡くなった記憶がありますが、枕元で「死」を迎える瞬間を見届けた記憶があります。

このように、50年前の田舎であれば「死」は身近にあったのです。

しかし、いつからか「死」は身近でなくなってきました。

現在の20代位の方は、亡くなられる瞬間を近くで看取ることはあまりないのではないでしょうか。

核家族化」が進み、祖父母と同居をすることが無くなり、また、医療が進んで老人の高齢化が進んでいるため、「死」が身近でなくなっているように感じます。

 

私は中学生くらいまでは、親戚の祖父母や叔父叔母の看取りを経験していますので、「死」を意識する機会はありました。

特に、数日前まで普通に生活していた祖母が急に倒れて、そのまま意識が戻る事もなく「死」を迎える様子は、いまでも鮮明に記憶されています。

心臓が止まると数時間で「死後硬直」が始まり、全身が蝋白色に変化をしていくのです。

そこには、生前の祖母ではなく、単に肉の塊としての祖母の姿があるだけです。

 

自分が死んだ後が気になる

 

小学校当時の私は、「死」の恐怖で一番大きかったのは、「自分が死んだ後の世の中はどのように変化するのだろうか」でした。

何故、こんなことを考えたのかは解りませんが、いつも「死」を意識すると、自分がこの世に存在しなくなった後が気になったのです。

「世の中はどんなふうに変化するんだろうか」が、とても気になったことを覚えています。

そのことを考えると、怖くて眠れなくなったこともありました。

たぶん、自分だけが取り残されてしまう事が怖かったのかも知れません。

他の多くの方が、見ることが出来る未来を自分が死ぬことによりみることが出来なくなる。

そのことが怖かったのだと思います。

「死」そのものより、取り残されることが怖かったのでしょうね。

 

もう一度「死」が怖いと思えるようになりたい

 

今の私にはそのような不安はありません。

何故なんでしょうか。

自分が死んだ後の世の中の変化に興味が無くなったのでしょうか。

そう言われると、私が幼少の頃は「未来」について、沢山の事が語られていたように記憶しています。

小学館で発行していた「小学〇年生」という雑誌で、「21世紀の生活」なんて表題で、壁に掛けてある薄型テレビや、相手の顔を見ながら話が出来るテレビ電話。パイプの中を走るタイヤの無い自動車などが紹介されていたことを覚えています。

さすがに、「空中都市」は実現されていませんが、壁に掛けることができる薄型テレビや相手の顔を見ながら話が出来る電話は実現しています。

子どもの頃は、未来に対して夢があったのかも知れません。

だから、自分が死ぬことにより未来を見ることが出来ない事に対する不安があったのかもしれません。

しかし、現代は未来に対して希望が持てなくなってしまったのでしょうか。

それとも「死」に対する恐怖が無くなったのでしょうか。

10代で自殺をしてしまう方が沢山おります。

その現実がとても悲しく思われます。

我々の世代が、若い方々に生きる喜びを教えてあげることが出来なかったのではないかと反省しています。

ある方が、「子供達が未来に希望が持てないのは、両親が楽しそうにしていないからだ。」と言っていました。

確かに、私も自分の子供に対して人生が楽しいものだとは教えていなかったと思います。

母親も今を生きることに精一杯で、将来の夢などを子供に話すことがなかったように思えます。

 

自分の将来に希望が持てないのなら、生きる喜びを感じることが出来なくなるかも知れません。

私が小学生の頃、「死」を不安に思っていたのは「生きる」希望があったからかも知れません。

自分には解らない明るい未来があるから、その未来を見ないで「死」を迎えることは怖かったのかもしれません。

その頃の自分に戻りたいと思いました。

「自分が死んだ後の世の中が見たいから、死ぬのが怖い」と思える、希望を持った日々を過ごしたい。

たぶん、人生が楽しくなるでしょうね。

だって、今なら小学生の頃よりも自由に人生を生きることが出来るじゃないですか。

だから、これからの人生も楽しんじゃおうと思います。