業の強さ

なんと「業」が強いのだろう。

1年半年の間、勤務した障害者施設を6月末で退職することに決めた。

なのに、未練がある。

その理由は、仕事自体が嫌な訳ではないからである。

 

障害者施設に入職した理由

 

昨年の1月に障害者就労支援施設に入職をした。

入職の理由は、自分の小学校時代まで遡る。

小学校低学年の頃の私は、他の子どもに比べると成長が遅れていたように思える。

身体が小さかった訳ではないが、就学までは殆ど家から出ない生活をしていた。

理由は、生後間もなくに高熱を出し生死を彷徨ったようである。

当然、私自身は知らないが、よく家族から言われていた。

原因は良く解らないが、1週間程意識を失い当時の医者も諦めたと聞いていた。

意識を失ってから1週間後に、奇跡的に意識を取り戻したと聞いている。

当然、体が弱かったのだろう、当時の記憶では、良く体調を崩して病院へ連れて行かれたことと、一人で寝ていた事を覚えている。

小学校へ入学するまで、家の庭から出た記憶がない。

 

そんな生活をしていたのだから、小学校の低学年では他の子達より行動がドン臭かったようである。

覚えているのは、運動会の徒競走で万年ビリだったことである。

確か、2年生の運動会は体調を崩して参加出来ずに見学をしていた記憶がある。

そして、その当時の友達はちょっと変わった友達だった。

その友達は小学校の中学年から授業についていけなくなり、そんな子だけを集めたクラスに編入されてしまった。

私は、小学校6年までは、その子やその子のいたクラスの子達と良く遊んでいた。

私は、そのクラスに編入させられることは無かった。その理由は、読書が好きで良く本を読んでいたので、とりあえずは勉強にはついていけたからである。

彼らの通ったクラスは、今でいう特別支援学級である。

著しく学力が低下しているか、みんなと同じ行動を取ることが出来なくなってしまった子供達なのである。

知的障害者ASDの子達だったのである。

私が仲良くしていた子は、拘りが強く負けず嫌いだったので、何かと友達とぶつかってしまい、怒り出し暴力をふるう事がしばしばあった。

現在では、ASD統合失調症などと診断され、しっかりとした治療法もあり、当時に比べれば認知されているが、当時は全く認知されることが無く、「知恵遅れ」と括られていた。

 

私も乳幼児の時の意識喪失により、脳に障害が生じていたら、彼らと同じようになっていたであろう。

幸いにして脳障害にはならなかったが、発達速度は他の子達よりも遅かったのかもしれない。

そんな自分を意識した訳ではないが、小学校の頃から自分より年下の子や弱い子と一緒にいることが好きであった。

おせっかい焼きだったのかも知れない。

成人になって自分の生活を優先しなければならなくなったし、自分のやりたいことを見つけ、その道に進もうとして、幼少期の思いに封印をして、自分の思いを実現することにまい進してきた。

時には、人を蹴落として人より上に立つこともしたし、自分の主張を成し遂げるため戦ってもきた。

他の人から「人でなし」と罵られたこともあった。しかし、自分が信じて進んでいる道なので、後ろを振り向かずにまい進していた。

心がいつも折れそうであったことは否めなかった。

 

定年の年齢が近づくにつれ、小学校の頃にやっていたことを思い出すようになり、定年を機に障害者とのふれあいを考えるようになったのである。

しかし、すぐにそのような施設への就職をするチャンスにめぐりあえず、半年が過ぎた時に今の障害者施設の求人を見つけたのである。

 

入職をして

 

入職することが出来た時は、とても幸せに思えた。

自分がやりたかったことが実現したと思えた。

その施設は、軽度な精神障害知的障害者が中心で、一般就労を目指し施設内での軽作業や、契約先の特養や精神病院での清掃作業を行う施設であった。

入職時の私は、施設内で近隣のマンションや雑居ビルへ利用者を引率して清掃作業をやってもらう指導員として働いた。清掃内容はビルやマンションの共有部分の清掃作業である。

主にエントランスの掃き掃除や、エレベータ、非常階段の清掃である。簡単な清掃作業なので、掃除の経験の無い障害者にも簡単に出来る作業であった。

暫くすると、特養や精神病院へも出向くようになり、会社から指示を受けたのは精神病院での作業指導員であった。

アメンバーは殆ど変らず、たまにスポットで利用者が変わる程度だったし、作業内容も殆ど毎日同じ作業だったので、それほど神経質に指導をする必要はなかった。

私自身も利用者と一緒にダスター作業を行うなど、出来るだけ目線を合わせるように努めてきた。

私は出来るだけ、利用者に楽しんで仕事をしてもらえるように考えていた。

どうしても、仕事は辛いものと考えがちになるので、仕事は楽しいものというように捉えて欲しかった。

さらに、自分で考えることも覚えてもらいたかった。

 

しかし、利用者の中には小さい時から自分で考えることをさせてもらえないで育った子もいた。

その子は、指示を受けなければ行動することが出来なかった。

自分で考えることが出来なくなっていたのである。

そして、言われたこともすぐに忘れてしまい、忘れた事を他人のせいにする癖があった。

出来ない自分を正当化することに対しては、異常な執着を持っており、出来なかった理由づけは、私の想像できないような理由を考えてくる。

多分、小さい頃から自分を防衛するために会得した知恵なのだろう。

そんな利用者に対して、私も意地になってしまった。

指導者としては、あってはならない事である。

本来であれば、その利用者に思いをしっかりと聴き、出来ることから改善をさせればよかったのだが、そこまでの心に余裕がなくなってしまっており、自分の思いを強要していた。

 

この強引な指導が私の「業」の深さなのである。

幼少の頃の私は、他の子に対して無意識にコンプレックスを持っていたのだと思う。

無意識に出来ない自分が嫌いだったのだろう。

だから、無我夢中で何事にも取り組んできた。

負けず嫌いな性格もあったと思えるが、負けてしまう自分が許せなかったのである。

 

そして、その思いを他の人にまで押しつけてしまう傾向が強かった。

これが私の「業」である。

私は、自分の性格が指導者に向いていない事に気付いた。

他にも色々なことはあったが、このまま指導者を続けると、色々と弊害が生じるように思えた。

1年半年間、指導者をやらせて頂き楽しくて充実した毎日を送ることが出来た。

利用者は素直で、こんな私の助言をしっかりと聴いてくれた。

思わぬ成長を見せてくれた利用者もいた。

慕ってくれた利用者もいた。

だから、今のタイミングで指導者を辞めようと思った。

中途半端と言われるかもしれないし、自分でもまだやりたいと思う。

だが、これ以上やっていると辞め時を見つけることが出来なくなり、惰性で指導者をやることになりそうなので、敢えて辞めることにした。

 

この1年半年で学ばせてもらえたことは沢山あった。

 

本当に感謝に絶えない。

有難う。