65年の生涯を振り返ってみる(小学校高学年から中学生時代)

お早うございます。

 

今日は11月26日の日曜日。

時間は午前3時です。

寒くなりました。予報では今日の最高気温は13℃だそうです。

我が家でも、こたつが用意されリビングではストーブが活躍しています。

 

さて、今日は私が小学校から中学を卒業するまでを思い返してみましょう。

私の小学校時代で大きな節目となったのが小学校4年生でした。

父が病気になったのです。

その病名は「躁うつ病」です。現代ではポピュラーな病気となっていますが、当時は「精神異常」として扱われた病気です。

私の父は、長男として生まれ、祖父から家を継承され自分の好きな事など出来ない状況で家業を継承したのです。

母とは見合い結婚をし、兄と私を子供として養う生活を送っていました。

私が幼少の頃は、割と裕福な家だったと思います。

しかし、父が病気になってからの我が家は大きく様変わりしてしまいました。

我が家は農家でしたので、収入は農作物を育成し農協へ卸して生計を建てていました。

当然、働き手の中心は父でしたので、その父が病気になってしまい、入退院を繰り返すことになり、家計は苦しくなってしまったわけです。

経済的な困窮は、農家にとってはさほど影響はありません。

取りあえず、母が父に代わり農作物の世話をして収穫をして、農協の方に農作物を引き取りに来てもらい、代金を受け取ればいいのですし、食べるものは肉や魚など自分の家で賄えない食品だけを購入すればいいだけなので、それほど困りませんでした。

大きく変化したのは、家庭の雰囲気でした。

家族に病人が出るという事は、家庭を暗くしてしまい、些細な事で軋轢が生まれるようになります。

父が入院している時はそれほど感じないのですが、退院して自宅療養をしていると、家族全員が父に気を使いどうしても会話が少なくなり笑いもなくなりました。

私も毎年行っていた海水浴にも行けなくなり、季節の行事も参加が出来なくなり寂しい思いをしたことを覚えています。

近所の人たちはさほど気にしていなかったように思えましたし、母もそれほど気にはしていなかったのですが、祖父はかなり父の病気による世間の目を気にしていたようで、私や兄が近所の子供と遊ぶ事も嫌がり、何かと厳しく行動制限をするようになったのです。

そんな祖父を見て、父は祖父と口論になり気分が落ち込み、塞ぎ込むようになるだけでなく、暴力的な行動もとるようになってしまったのです。

父はどちらかと言えば気の小さい神経質な性格でしたので、小さなことでも気にしてしまい、また自分の思う通りにならないと落ち込んでしまう性格でした。

私も、そんな性格を若干受け継いでいるようです。

現代では、躁うつ病は診療内科で診察を受け、症状が軽ければ投薬と自宅療養で改善に向かう事が出来る病気だと思うのですが、病気に掛かった本人や家族は辛い思いをしなければならない事は変わっていないと思います。

父は2年の闘病生活を過ごし、入退院を繰り返していましたが、病気の改善は見られずに過ごしていました。

私が小学校の6年生の3月。もうすぐ卒業式を迎える頃に、父は自分の命を絶ってしまったのです。

この事は、以前のブログにも書かせて頂きました。

私は今でもその時の状況を鮮明に覚えています。

学校から帰り、居間でテレビを見ていたのですが、父の寝室で何かうめき声が聞こえた事を覚えています。

しかし、私はそんな大それたことが起こっているとは知らず、そのままテレビを観ていました。

母が畑仕事から帰宅して、何気なく父の寝室を覗くと、いつも布団をかぶって寝ている父が布団を掛けずに寝ている姿を目撃し、その首に紐がまかれていて、目を見開いていることに気付いたのです。

その時点で、父は自分の人生を終わらせていたのです。

 

私にとってこの2年間。特に小学校の6年生の1年間は、とても辛い1年でした。

父の病気は改善せず、家計も逼迫し出し父は自宅療養をするようになり、家の中は暗く沈んだ1年だったからです。

私の気持ちも安定せず、塞ぎ込んだり暴力的になったりして、よく同級生と喧嘩をしたり担任に攻撃的な言動をしたり、授業を抜け出してしまったりと、不安定な生活をしていました。

当然、学業に専念することは出来ませんから、授業にも着いていけなくなり、成績や生活態度の評価は最悪でした。

教室でも孤立してしまい、休み時間はいつも1人で過ごしていたことを覚えています。

まだ、小学生だったので、悪い道に進むという事にはなりませんでしたが、かなり危険な状態だったことは覚えています。

卒業式の時は父の葬儀も終わっており、私の状態も安定していたので、卒業式の後の謝恩会で、6年の担任の教師に「辛い1年だったな。これからも辛い事は沢山待っているだろうが、負けないで生きて行ってくれ」と言われたことは今でも覚えています。

 

父が亡くなり、家の中の雰囲気が少し明るくなり、私も中学に進学するので気持ちも前向きになっていました。

しかし、中学の入学式は父の法事と重なってしまい、家族の参列もなく事務的な手続きを私が自分で行ったことを覚えています。

特に寂しいという思いは抱く事はありませんでした。

この頃は母に苦労を掛けないように、手伝えることは出来るだけ手伝ってあげ、少しでも母の力になろうとも思っていたし、兄もいたので、少しづつ日常が戻ってきたのです。

 

しかし、この平和な日々もそれほど長続きはしませんでした。

当時、まだ祖父は元気でしたので、家の仕事こそはしていませんでしたが、兄が父に代わって仕事を始めると、何かと口を出してくるようになったのです。

祖父としては心配だったのでしょうが、兄からしてみれば迷惑な話だったのでしょう。

兄と祖父がぶつかり始めたのです。

しかし、この状況もそんなに長続きすることもありませんでした。

祖父が癌に罹患してしまったからです。

やはり、自分が病気になると気が弱くなるのか、手術後は大人しくなってしまい、兄とぶつかることは無くなりました。

祖父も病気をして数年で他界してしまい、家族は母と兄、そして私の3人になったのです。

その頃、私も高校に進学しており、自分の好きな事に没頭しており、殆ど自宅には寝に帰る位、色んな事をやっていました。

特に夏休みは殆ど家にいることは無く、ボランティア活動に熱中しており、同じ志を持った高校生達と毎日を楽しく過ごしていたことを覚えています。

ちょっと話が高校生まで進んでしまいましたが、中学時代の私は運動と演劇にはまり、運動ではテニスを、そして演劇部にも所属して演劇にも熱を上げていました。

中学は小学校とは違い、テストの成績が校内に掲示されるので、誰がトップかが一目瞭然でしたが、私は幸い成績では上位に名を連ねることが出来、小学校時代の落ちこぼれの汚名を返上することが出来ました。

運動の方はずば抜けて優れているという訳ではありませんが、3年間テニスをやり通し成人になってもテニスは続けていました。

演劇も40代の頃にあるノンプロの劇団に所属し、サラリーマンとしての顔と役者の顔を持ったことがありましたが、役者では生計が立てられない事を悟り、サラリーマンに集中し、面白い人生を歩むことになるのですが、この辺りは別の機会で書きたいと思います。

 

私の小学校高学年の時代は、闇の時代でした。

辛く出口の見えないトンネルを立ち止まったり、走ったり壁を叩いたりして進んだ時代でした。

今でも、その時の歪んだ自分に戻りそうになることがあります。

しかし、過去に囚われて過去の自分に戻っても、なにも楽しくないと自分に言い聞かせています。

そんな事より、今を楽しく生きることを考え、そのために出来ることをやる事に集中するようにしています。

 

さて、次回は高校時代から専門学校時代を振り返ってみたいと思います。

 

大輪の薔薇です。後ろの咲き掛けの蕾もあり、綺麗でした。絵としては若干しつこくなってしまった気がします。