お早うございます。
今日は11月19日の日曜日。
時間は3時50分。
2023年も残り1か月半となりました。
月日の流れは速いですね。
私も満65歳になり、半年が過ぎました。
人生において満65歳は、大きな区切りではないでしょうか。
老齢年金の支給開始や介護保険の自己負担等経済的にも変化が現れています。
そこで、今回は私の65年の生涯を振り返ってみようかなと思いました。
と言っても、そんな大それた生き方をしていた訳ではないので、自分の備忘録のようなものにしかならないでしょう。
出生は1958年(昭和33年)10月31日。
私と長男との年齢差は6歳です。
当時の母は何か病気をされていたようで、その間子供を持つことが出来なかったようです。
私が母の胎内に育まれた時も、無事に出産できないのではという不安があったと、母の実家の従弟から聞いたことがありました。
そんな心配は予想を外れて、私は出生したのですが、母の母乳を飲んだのが原因で、仮死状態になったそうです。
母は、何かしらの病気であったようで、薬を常用していたようで、その薬が原因で私が昏睡状態から心肺停止となり、仮死状態になったと話してくれたことを覚えています。
昭和33年の時代ですから、医療はそれほど進化していないし、茨城県の片田舎で生まれたので、医療機関も現在のように充実していませんでしたので、私の生存は諦めたと言っていました。
仮死状態はさほど長くなかったそうで、何とか自力で心肺活動が復帰したそうです。
しかし、意識が戻るまでは暫く掛かったようで、母は私が普通の生活が出来るとは思わなかったとも言っていました。
私の記憶では、何歳だったかは覚えていませんが、家の外、庭であっても勝手に出てはいけないと言われたことだけは覚えています。
田舎でしたので、幼稚園に通える子供は少なく、同級生でも幼稚園に通ったという子は10名もいなかったでしょう。
なので、幼少期を自宅で過ごすことは当たり前だったようです。
家は農家で、家族は祖父母と父母、そして6歳年上の兄の6人でした。
祖父は明治生まれの頑固な方でした。
自分の意思を通すことが当たり前で、祖母や父母には厳しかったことを覚えています。
兄にもかなり厳しい教育をしていたようで、私の記憶では、兄が中学生の時に同級生とキャンプに行きたいと言ったのですが、絶対に許さなかったことを覚えています。
兄は、夜中に家を抜け出してキャンプに参加したようで、後にこの事が祖父にばれてしまい、かなり厳しく叱られていたことを覚えています。
当時は家長制度が残っており、兄は長男でしたので、家業を継ぐ大事な役割があると言われていました。
兄は自分のやりたいことがあったようで、いつもそのことについて反発をして、祖父とぶつかっていたことを覚えています。
私は当時は体も弱く、知恵遅れのように扱われていたし、次男であることもあり、祖父は私に対しては、さほど厳しくすることは無かったのですが、小学校に入り同級生と遊ぶようになってからは、変なところで厳しく叱られたことを覚えています。
まず、必ず暗くなる前に帰ってくること。
友人の家で食べ物を貰わない事。
私からも食べ物を挙げない事。
友人の家に入らない事。
極めつけは、ある特定の友人とは付き合わない事(学校以外では遊ばない、家にはいかない)。
等がありました。
私は、自分の体が弱く、食べ過ぎたりすると下痢をしたり、ちょっと体調が不調になると熱を出したり体に発疹が出たりするので、体を心配してくれていたと、今は考えられますが、当時は「なんでこんな事で叱られなければいけないんだ」と思っていました。
今でも覚えているのは、自宅で取れた柿を友人と一緒に食べようと、収穫されていた柿を持ち出したことがあったのですが、そのことが祖父に知られて、かなり厳しく叱られたことです。
母は「爺ちゃんはケチだから。人に物を挙げるのを嫌う」と言っていました。
当時、私は小学校3年生だったと思いますが、なぜか妙に納得した事を覚えています。
祖父は、私が祖母や母からお菓子を貰う事も、厳しくとがめた事がありました。
「子供の内から甘い物の味を覚えてしまったら贅沢になる。菓子など与えるな」と祖母に怒鳴っていたことを覚えています。
まあ、明治生まれで戦争を経験して、厳しい生活を強いられて育った人だったので、そんな考え方になってしまったのと、性格も気性が激しい人だったと覚えています。
このDNAは確実に私の中に存在しています。
祖母は、体の小さい人でした。
私が小学校に入学するまでは、殆ど私の面倒を見てくれて、少しの事で寝込んでしまう私の看病をしてくれたことを覚えています。
看病といっても、寝ている私の近くの縁側で針仕事をしたり、お粥を焚いてくれたりしたことです。
祖父が厳しかったので、甘い物を食べさせる訳にはいかなかったようで、サツマイモを蒸かして裏ごしして餡状にして、食べさせてくれたり、少量の砂糖をお湯に溶かして、甘い白湯を作ってくれたりしました。
しかし、明治の女でしたので躾は厳しく、覚えているのは、敷居や畳の端を踏むと叱られ、新聞紙を踏んでも叱られたことを覚えています。
靴は脱いだら揃えておかないと、ものさしで叩かれた記憶があります。
私は、6歳くらいまで箸を上手に使えなかったようで、母が見かねてフォークを買ってくれたのですが、そのことで母と祖母が口論をしていたことも記憶にあります。
祖母はできなくても箸を使わせろと言っていたようでしたが、父からも私がフォークを使って食べさせると言いきられたようで、表向きは諦めたようでしたが、私は祖母に箸の握り方を教えられた記憶があります。
そんな厳しい教え方ではなく、なんだったか私が好んで食べるお菓子を持ってきて、お箸で掴んでたべるようにして、教えてくれたことを覚えています。
祖母との思い出で一番覚えていることは、小学校に入学してからの事です。
確か、小学校4年生位からだったと思いますが、学校から帰ると、必ず味噌焼きおにぎりが置いてあるのです。
小学校に入学してからも、体はあまり丈夫とは言えない状態で、低学年の頃は運動会には参加させてもらえませんでした。
体育の授業も他の子がやっていることが出来なかったようで、見学が多かったと覚えています。
多分、単純に運動神経が鈍かったのと、覚えるのに時間が掛かったので、他の子についていけなかっただけだと思いますが、先生も親から幼少期の病弱の件を聞いていたのでしょう。あまり厳しく言われず、出来ないなら仕方ないという対応でした。
話が反れましたが、商学年生にもなると体も丈夫になってきて、他の子と同じように遊ぶことも出来るようになり、食べ物で体調を崩すことも減って来ました。
また、食欲も旺盛になりお腹を空かせていたのでしょう。
なので、祖母は私にソフトボール位ある味噌焼きおにぎりを用意して置いてくれたのです。
今でも、あの味と目を閉じればおにぎりが瞼に浮かんできます。
そんな祖母は、60歳の時脳卒中で他界してしまいました。
祖母が急に倒れ、大きないびきをかいて意識が亡くなってしまい、医者を呼ぶまでの間に息を引き取った光景は今でも忘れることは出来ません。
もう50年位前の事ですが、はっきりと覚えています。
子供ながらに悲しくて泣いていたことも覚えています。
何と、幼少期の思いてだけでこんなに書けるとは思っていませんでしたが、長くなりそうなので、この辺で終わりにしたいと思います。