お早うございます。
今日は5月26日の日曜日です。
時間は6時15分
曇り空です。
5月も残り5日となりました。来週は6月です。年々日々の流れが早く感じられるようになってきました。
さらに季節感が変化しているようにも思われます。さすがに季節が逆転しているまでにはなっていませんが、寒暖の差が厳しくなったように思えます。
急に暑くなったり寒くなったりと、不安定に感じるのは私だけでしょうか。
さて、本題ですが、ある出来事をキッカケに私の思考がデジタル化されていることを感じました。
昨日や今日といった最近に始まったことではないのでしょうが、気付いたのが最近だったのです(昨日でした)。
思考のデジタル化とは、考え方が極端になっているという事です。
「出来る」か「出来ない」、「良い」か「悪い」というように、二者択一の考え方になっているということです。
思考がデジタル化すると、考え方が単純になるので、決定が早くなり生きやすくなるのではと思っていたのですが、どうもそうではないようです。
自分の中で消化できる事はいいのですが、他人と関わるには、デジタル化が進んでしまうと、トラブルを招くことが発生すると思いました。
「出来る」「出来ない」をはっきりと認識してしまうので、他人にも強要してしまっていたようです。
私の人間性もあるのでしょうが、デジタル的思考は、極端な考え方に傾いてしまうように思われます。
例えば、誰かが犯したミスは許せるのか、許せないのかという事を考えた時、デジタル化の思考は、「ミスは許すわけにはいかない。しっかりとリカバリーをするべき」と決めてしまうことになります。
しかし、アナログ的な思考であれば、「そのミスの内容や発生した状況などを鑑みて、本人に能力や対応を考慮したうえで、どこまでをリカバリーさせるかを検討する」という考え方になる場合もあります。
デジタル化の思考による対応は、時短化が出来、責任を明確に出来ますが、当事者にしてみれば、負担が大きく納得のいかない結論と受け入れられない部分も出てくるのではないでしょうか。
アナログ的思考で対応した場合は、状況の把握や当事者の対応で時間が掛かったり、曖昧になる判断も出ますが、状況によっては当事者がしっかりと反省する時間を作る事も出来るし、次のステップへ繋げるために時間を掛けることができるというメリットもあるかもしれません。
21世紀になってからの世界は、デジタル化の進歩が著しく、AI技術の進歩やインターネットの普及で情報取得の容易化や、SNSによる情報流布のスピードが速くなり、情報の多様化で個人の情報も公の場で一人歩きするようになって来ました。
我々は、そんな情報社会で色々な情報を分別して、良い情報と悪い情報を見分けなければなりません。
つい最近も、ある芸能人に関する根拠のない情報がインターネット上で流布し、3割位の方が鵜呑みにしていたというニュースが流れました。
知らぬ間に、情報の分別をデジタル的に分別しなければならないような環境になってしまっているのではないでしょうか。
解っていて思考をデジタル化して、選択のスピードを速めるように意識しているのであれば問題は無いのですが、知らぬ間に思考をデジタル化して、情報の精査もせずに入ってきた情報を信じる、信じない、又は良い、悪いで判断するようになってしまうと、思考の単純化に陥り深く情報を分析したり、自分の感情を意識しなくなるのではないかと思えたのです。
私がそうなりつつあったのです。
自分はこう考えるので、自分の考え方と違っている考え方は受け入れない(そこまで極端ではないですが)場合は、その方の人格まで否定してしまう思考になってしまったり、一切、交わる事を拒否したりとなり、いじめの原因にもなるように思います。
さらに、極端になると自分以外を信じられず、自分を孤立させてしまい、究極は自殺にまで発展してしまう場合もあるかもしれません。
自分だけの考えに拘るのではなく、他人の考え方も聞き、そんな考え方もあるという事を認識したうえで、自分と違う考えを持つ人がいること、どうしても相容れられない意見を持った人とは必要以上に関わらないようにするスキルを学ぶことで、思考のデジタル化を抑えることが出来るかもしれません。
思考のデジタル化が悪いのではなく、全てをデジタル化してしまい、思考の幅を狭めてしまう事が、自分を狭い世界へ追いやり、自分自身への不信感や怒りの解消が出来なくなり、自分を壊してしまうことになり兼ねない怖さがある事に気付いたのです。
最前線で働いている方や、いつも競争の中にいる方々は、どうしても思考がデジタル化してしまい、極端な思考になりがちになると思いますが、色々な考え方があり、世界感があるという事を知ることも大事なことと思います。
もし、少しでもそんなことを感じる方がいらしたら、ちょっと立ち止まって自分を振り返ってみませんか。