65年の生涯を振り返る(40代後半から60代)

こんばんは。

 

今日は12月23日の土曜日。

時間は19時です。

 

昨日から日本海側は記録的な大雪となっています。

私の住んでいる地域は、今朝の気温が氷点下となりました。

外の空気は冷蔵庫の中のように冷たかったです。

 

私はある方にスカウトされ、会社の創立メンバーとして迎えられました。

その会社は、印刷関連の会社と大手の出版会社をアテンドすることをビジネスにするために創立されました。

印刷関連の会社なので、デザイン会社や編集プロダクション、そして印刷会社と大手出版会社ですので、誰でも知っているような出版会社や教科書の出版を行っている会社がクライアントでした。

まず、私達が始めた仕事は、相応のニーズの把握です。

大手出版会社は、安価でクオリティの高いデザイン事務所や編集プロダクションを探しています。

印刷関連会社は、安定した発注を頂ける出版会社を顧客にしたいと思っていますが、双方とも現状の仕事を消化することで、新規のクライアントやサプライヤーを探す事に時間を割くことが出来なかったのです。

そこで、間を取り持ってあげることで、紹介料や営業代行をビジネスにすることを思いついたのが、私に声を掛けてくれた方でした。

その方は、某大手企業で営業を行っており、双方の要望を相談されていたので、このビジネスを始めることにしたと言っていました。

私は今までの経験を活かし、印刷関連会社を訪問し、ビジネスのポイントを説明して、その会社の強みや設備内容等を把握して、営業リストを作成し、大手出版社だけでなく大手広告代理店や放送局等へ営業を掛けていきました。

ビジネスは順調に進展し、会社の業績も伸びていたのですが、残念なことにその方が急逝されてしまい、その直後にもう一人の創業者も急逝してしまったのです。

株主から会社清算手続きを打診され、1人残った創業者が精算手続きをして、会社を終了させ、私はその会社を去る事になりました。

しかし、その時もある方の紹介により、新しい印刷スキームを作りだした印刷会社の新規営業職で採用されたのです。

私は、その会社でも新規受注対応営業を担当し、売上向上に貢献しました。

その会社は、A3サイズ迄のカラー印刷だけを受注するスキームと、通常の印刷料金より2割ほど安い印刷コストを明示して、印刷関連企業をクライアントに絞り、営業展開を掛けるビジネスモデルで、売上を伸ばしていました。

私は、以前に営業を掛けた会社に営業活動を行い、その会社の印刷工場というポジションで印刷物の製作を提案しました。

その会社で営業を掛けていたマーケットでないジャンルの会社だったので、販路を広げることになり、急激に売上を伸ばすことに成功したのです。

さらに、いままでのように印刷前にフィルム作成を依頼せず、クライアントから印刷用のデジタルデータを直接受け取り、印刷用の判を直接作成できるシステムを導入するシステムと、印刷物を遜色のないデジタルプリント機を日本で最初に導入し、新たなクライアントを獲得することにも成功したのです。

このシステムを導入するために、その機械を開発した海外メーカーに訪問をし、色々と状況分析や導入後の営業活動方針などをメーカーと協力して作成し、日本のパイオニアとして受注対応をするためのプロジェクトを立ち上げ、受注活動から品質管理までを責任者として対応しました。

しかし、ここでもある時点から私の活動に脅威を感じる取締役や創業者から疎まれるようになり、年末に解雇を通達されたのです。

その時、私は取締役でしたので、一般の社員のような雇用契約ではなかったので、取締役会で取締役解任動議が提案され賛成多数で解雇が決定したのです。

多分、私の性格でやりすぎてしまうのでしょうね。

その時、創業社長から社長の息子に代替わりを行うタイミングもあり、息子にとって私は「目の上のたんこぶ」だったのでしょう。

 

しかし、ここでも私を雇用したいという会社の社長が現れ、解任後すぐに新しい会社に採用されました。

その会社は、上場企業のグループ会社で、ある特殊なマーケットで受注活動をしている会社でした。

しかし、そのクライアントから、商業印刷物のデザインから印刷までの相談を数社から受けており、その部門を専門に対応できる営業マンを探していたのです。

そのポジションで、知名度があった私はすぐに採用されたのですが、上場企業の子会社ですので、採用時期にルールがあり前職退職から1か月は自宅待機を指示され、1か月後に正式に採用通知を受け取り、本社勤務を命じられました。

その会社のポジションは、部署や部下もなく、全くの単独行動が条件でしたので、完全成果主義の対応でした。

営業に必要なツールも用意されず、社内のサポートは会長や社長の知人の紹介で、私のような人間が会う事の出来ないような大手銀行の会長や頭取、国会議員、超大手企業の役員がクライアントでした。

会長や社長から、訪問先を指示され、指定された時間に訪問して商談を進めるという営業でしたが、対応する相手が先ほど書いたようなVIPと面談し、実務は秘書や指示を受けた重役や部長職とやり取りをするという業務でした。

絶対にミスは許されず、常に神経を使う状況でした。

この会社には定年まで勤務し、雇用延長で仕事をしていたのですが、コロナの蔓延で退職することになったのです。

そして、退職後は何社かのアルバイトを経て、今のマンション管理員に落ち着いたという訳です。

 

こうして、振り返るとリストラも経験したし、海外でのビジネスや、会う事が出来ないような方ともお会いすることが出来たし、私のビジネス人生は恵まれていたんだと思いました。

正直、辛くて逃げ出したくなったことも何度もありましたし、リストラされた時は「なんでこんな思いをしなければならないのか」とリストラされた会社を恨んだ事もありました。

家族、特に妻には辛い思いをさせてしまったと申し訳ない気持ちにもなりました。

しかし、現在は管理員として安定した業務を全うしていますし、あと10年は管理員として働きたいと思っています。

 

2023年もあと1週間となりました。

2024年がどんな年になるかは解りませんが、無理をせず自分なりに毎日を充実させて過ごして行こうと思っています。

 

厳寒の中、雪を被る薔薇がありました。厳しい寒さに耐える薔薇の強さと美しさを描いてみました。

 

NISAのお話

こんにちは。

 

今日は1月6日の土曜日です。

時間は午後1時40分。

今日は、午前中はお仕事でした。

1月4日からお仕事が始まりましたが、やっぱり、お仕事が出来るって有難いですね。

年末年始のお休みが、12月31日から1月3日迄だったのですが、運動不足になってしまい体調を崩してしまいました。

休み中に出掛ければいいのでしょうが、目的もなく出掛けるのはとても苦手です。

散歩も何か買い物をするとか、目的があれば出掛けますが、何の目的もなく出掛けるのは嫌なのです。

特に元旦と2日はずっとお家にいたので、運動不足となってしまいました。

 

今年の元旦は、能登地域を中心とした大きな地震が発生して、大変な被害が出てしまいました。

被災した石川県の方々と新潟や近県の方々には、心よりお見舞い申し上げます。

さらに2日の夕方には、羽田空港で飛行機事故が起こり、5名の方が亡くなるという悲惨な事故が起きてしまいました。

その後の報道では、海保機が指示の勘違いで滑走路に進入していたことが、事故の原因だったようです。

しかし、管制塔の指示の解釈についての間違いなので、はたして一概に海保機のクルーを一方的に攻められないのではと、私は思いました。

亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。

 

さて、本題に入りましょうか。

その前に、お断りをしておきます。

私は、ファイナンシャルプランナーとしての教育を受け、2級ファイナンシャルプランナーの資格を保有しておりますが、NISAについての専門のレクチャーを受けた訳ではありません。

ですので、この記事は私が実際にNISA(実際に始めたのは積立NISAです)をやって、感じたことを書かせて頂きます。

NISAの詳細情報については、NISAについてしっかりと知識のある方のサイトを参照願います。

私が「積立NISA」を始めたのは、約4年前です。

当時のNISAには「NISA」と「積立NISA」と「子供NISA」(ジュニアNISAだったかも)がありました。

「NISA」は、まとまったお金で販売されている株式を購入するというものでした。非課税期間は5年だったと思います。

「ジュニアNISA」は子供向けだったので、私には蚊帳の外の商品でした。

そこで私は、「積立NISA」の口座を開設して、月額5,000円と決めて「積立NISA」を始めたのです。

「NISA」の大きな特徴は、配当金に課せられる税金(配当税は20%)を免除してもらえる事と、商品が安全な商品でかつ、手数料が安いのです。

初めて投資商品を買って、投資を始めようと思われている方には、とても良いシステムだと私は思います。

特に「積立NISA」は、殆どが「投資信託商品」なので、運用は専門の方が運用してくれます。

なので、口座を開設して自分が投資をしたいと思った商品を選んで、毎月、決まった日にお金を振り込めばいいのです。

積立投資なので、月額決まった金額を決まった日に振り込めばいいだけです。

 

では、私が「積立NISA」を始める時に行った事を書いてみようと思います(細かい事は忘れてしまいましたので、正確な情報ではありません。始める前にサイトで検索して、エントリーの方法を検索し、しっかりと理解をしてから始めてください)。

私が「積立NISA」を始めようと思った時に行った事は、サイトから情報を収集した事です。

「積立NISA」とはどんなものなのか、メリットはどんなところか、デメリットはどんな事か等を調べました。

自分のお金を託すのですから、まずはシステムをきちんと理解することが大事だと思ったのです。

国が主導で始めた投資商品であること、海外で運営されている商品を日本版にして、始められた商品なので、ある程度の信用は担保できる。非課税枠がある。

但し、運用年数や年間投資額の上限、非課税対応金額に上限があるなどのデメリットもありました。

私の場合は、月額5,000ですので年間6万円の投資ですので、全く問題はありませんでした。

次に決めた事は、月額の積立額です。

「積立NISA」は毎月同じ金額を積み立てる商品ですので、毎月、確実に積立が出来る金額を決めねばなりません。

つまり、そのお金がなくても支障が無い額を「積み立てNISA」に使うようでなければならないのです。

ここでのポイントは、「決して無理な金額を設定しない事」です。

私は、月5,000円を積み立てています。年間60,000円ですね。

忘れていました。私は10年で100万円になればいいなと思って「積立NISA」を始めたのです。

年6万円、10年で60万円の元本で、運用利益が40万円。(かなり欲張りですね)

始めた当初は、10年で解約しようと思っていました。

しかし、今は15年は続けようかなと思っています。

その次に決めるのが、口座を開く会社です。

私は、ネットバンキングでやろうと思っていましたので、楽天証券SBI証券を比較しました。

結果、SBI証券にしました。

住信SBIネット銀行」に口座を持っていたので、利便性も考えて「SBI証券」にしました。

口座を開設したら、投資商品の選択です。

商品の選択は、とても重要です。

「積立NISA」は「投資信託商品」がメインです。「株式」は無いのではなかったかな。

しかし、今年から「新NISA」になったので、株式商品も選択できるようになったのではないでしょうか(これについては、サイトなどで調べてください)。

私が商品を選択するために重点を置いたのは「手数料」の安さです。

特に「積立NISA」は、積立金が入るたびに選択した商品を購入して、保有数を増やしていき運用します。ですので、諸々の手数料が安いほど、運用利益は増加します。

高い手数料では、運用利益から手数料が引かれますので、損をしてしまいます。

手数料については、かなり商品単位で比較して決めました。

それと運用利率ですね。

ある程度、運用利率の良い商品などを、ネットで調べ、また経験者の情報なども分析して商品を決めました。

私は3本の商品で運用しています。

実際の商品の購入については、ネットやすでにNISAをやっている方にアドバイスを貰うといいと思います。

投資は元本割れをします。

しかし、長期で運用をする。複数の商品に分散投資をする(ひとつの商品だけを購入して投資をするのではなく、何個かの商品に月々の積立金を割り振って運用する)と、リスクはある程度、回避できます。

私が「積立NISA」を始めたすぐに、コロナが世界中に拡大しました。

その時は、半年位、完全に元本割れでした。

しかし、半年位経ったら少しずつ運用利益が出始め、翌年はすごい勢いで利益がでました。

当然、始めたばかりでしたから、そんな大きな利益ではありませんでしたが、諦めずに続ければ必ず良い方向へ向くと思います。

現在の私の運用利益は、9.5万円位です。

銀行や郵便局に預貯金しても、利子はこんな数字にはならないでしょう。

当然、投資金額が大きくなれば、運用利益も上がります。

場合によっては、大きなマイナスになるときもありますが、日々の運用で一喜一憂するのではなく、年単位で収益を見ていくようにすれば、決して悪くないと思います。

 

是非、余裕資金を捻出して、投資にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

 

薔薇です。花だけを写実的ではなく、イメージで描写してみました。薔薇の美しさや気高さが感じて頂ければ幸いです。

 

2024年を迎えて

こんにちは。

 

今日は12月31日の日曜日です。

時間は、4時です。

はっきり言って何も変わる事はないのですが、今日は大晦日で、明日は1月1日です。

カレンダーが変わり、新しいカレンダーでの年が始まります。

という事で、今年1年を振り返ると、2月に最愛の愛犬が天寿を全うして、天国へ旅立ったことと、二人目の孫が6月に生まれた事です。

生まれた孫は女の子で、亡くなった愛犬も女の子でした。

私達夫婦は、勝手に孫は愛犬の生まれ変わりと思っています。

それと、私の言動のために、妻に大きな心の傷を負わせてしまったことです。

これは、とても辛いことですが、全ての原因は私にあります。

その罪は償っても償いきれない程に重く、そして、重大な過ちと認識しています。

その件以来、私は妻と肉声で会話をしていません。

また、妻を傷つけてしまうかもしれないからです。

私は、自分の正義のために人を傷つけてしまったのです。

そんなのは正義とは呼べないでしょう。

エゴですよね。

今年(2023年)の大きな過ち。しかし、これは私が改めなければならない考え方によるものです。

65年生きてきて、やっと気づきました。

全く、どうしようもありません。

なので、2024年以降は自分の身勝手な考え方を人に押し付けるのを辞めることと、自分に関係ない人の身勝手は、見てみないようにしようと思っています。

例え夫婦であっても、一個人であることを認識し、人の尊厳を傷つけるような行為や言動は行わない。

また、自分に関わりの無い方が軽度な不正を行っても、関わることなく見過ごすようにする。

下段の対応は正しいのかは解りませんが、私の性格は他人の理不尽な行動も許せないという極端な考えになるところにあります。

つまり、自分の考えを他人に押し付けるという悪い癖(いつもではないですが)があります。

それでトラブルを起こすこともありました。

私も65歳で来年は66歳になります。

もう、そんな青臭い似非正義面は、卒業しなければなりません。

私が見過ごすことによって、誰かが大きな実害を被るなど、実害が出ないような行為は見過ごすことにします。

それと、常に行動に意味を持たせ、何か行動を起こす時は、まず考えるようにします。

今迄は、直観で行動してしまい、過度な対応をしてしまい、トラブルを起こしたり、他人を必要以上に傷つけてしまったことがありました。

2024年は、行動を起こす前に一呼吸をおいて、考えてから行動をおこすようにしようと思っています。

どこまで出来るか解りませんが、常に意識をするようにします。

 

これが、2024年の目標です。

2023年は健康に留意することを目標にしていましたが、健康診断の結果で若干の肥満体質と評価されてしまいました。

健康面は、ことしも意識をして行こうと思っています。

肥満の解消。暴飲暴食はやらない。

定期検診を受け、体のメンテナンスに努める。

この目標は、今年も継続です。

数値目標として、体重を60Kg台まで落とす事。

血圧を80~120程度にキープすることです。

 

さて、来年の今頃はどうなっているでしょうか。

 

2023年から2024年に変わっても、大きな変化はないかもしれませんが、確実に暦年年齢は積み上げられ、体も老化してきます。

改善できるところは改善し、これからの人生を有意義に過ごせるように努力してまいります。

 

オレンジの薔薇です。新年に際し、明るい年の始まりをイメージしました。



65歳の生涯を振り返る(30代~40代)

こんにちは。

 

今日は12月16日の土曜日です。

時間は13時45分。

 

今日は季節外れの暖かさです。

気温は22℃だそうです。

10月並の暖かさですよね。

予報では、明日は最高気温が15℃となっています。

今年の天候は異常ですよね。

夏は猛暑で雨が少なく、秋がとても短く、急に寒く成ったかと思えば、今日のように異常に暖かい日がある、と落ち着きがありません。

 

では、本題に入りましょう。

デザイン事務所の業務で体を壊してしまった私は、知人の紹介である印刷会社に就職することになりました。

学生時代にアルバイトをしていた経験があるので、すぐに採用が決まりました。

配属されたセクションは、レタッチセクションです。

現在の印刷環境では、デジタル化によりレタッチという工程は無くなってしまいました。

その当時は、版下をフィルム撮影し、4色の色に併せて、4枚の印刷用のフィルムを作成するのでした。

細かい説明は専門的になってしまいますので省きます。

その会社は冷暖房の設備が無く、冬は石油ストーブで暖を取り、夏は扇風機で暑い風をかき混ぜていただけでした。

作業中はTシャツと半パンという、考えられない格好で仕事をしていました。

その会社のクライアントはスーパーマーケットが多かったので、チラシの印刷が殆どでした、

工程は細かく分けられており、写植といって文字を打つセクションや、版下を作成するセクション。印刷機を回すセクション、製本や梱包を担当するセクションと、かなりの社員が働いていました。

昼休みは、食事が終わった後、近くの公園でキャッチボールをやったりして、楽しく過ごしていました。

しかし、あることがキッカケとなって、その会社を辞めることになり、次に就職したのも印刷会社なのですが、その会社ではデザインやディレクションの仕事を担当しました。

メインクライアントは、大手音響電気メーカーでした。

私は、28歳からクラアントへ出向に出され、クライアントの技術者と仕事をすることになったのです。

そこでの仕事は、クライアントの技術者と協力して、発売される商品の取り扱い説明書や技術マニュアルの原稿を作成する仕事でした。

発売前の商品を分解したり、故障のした時の修理方法や回路図に必要事項を記載するため、商品を動かしながら電圧を測定したり、わざと斑過電圧を流し、どの部品が故障するかなどを検査していました。

この仕事は10年程続けていました。

10年目に、その会社の要職の方に声を掛けて頂き、その会社の海外の工場に出向するように、勤務していた会社に働き掛けて頂きました。

所属していた会社は、メインクライアントからの依頼なので断ることもせず、私をマレーシアとシンガポールに出向させてくれました。

マレーシアに、クライアントが懇意にしている会社があり、その会社に出向と言う形を取って頂き、その会社の準社員としての身分と今までの日本の会社の社員と言う身分を持つことになりました。

その時の勤務体系は、マレーシアとシンガポール、香港、日本を定期的に移動して、業務をマネジメントするという業務でした。

シンガポールやマレーシアでは英語でのコミュニケーションがメインでしたので、最初はだいぶ苦労したのと、移動が頻繁だったので、パスポートがすぐに入出国のスタンプで一杯になってしまい、空港のイミグレーションで不審に思われ、長時間尋問を受けた事もありました。

何故、私がこの業務を着任したのかというと、当時、デジタルによるドキュメントの作成が始まって、アップルのマッキントッシュが印刷業界でも取り上げられるようになりました。

私は、早くからコンピュータによるドキュメント作成やイラストの作成に興味を持っていたので、コンピュータの知識があったので、クライアントの要職の方が推薦してくれたのです。

個人的にマッキントッシュを使ってデザインや編集作業をしているデザイナーやエディターと交流を持ち、アップルやアドビのエンジニアとも情報交換の出来るパイプを作っていたのです。

さすがに、スティーブ・ジョブスと会う事は出来ませんでしたが、当時のアップルのCEOだったジョン・スカリーとは面会するチャンスがありました。

それで、マレーシアやシンガポールで活躍することが出来たのです。

しかし、私がメインで所属していた印刷会社が業績不振に陥ったため、今度はマッキントッシュやデジタル機器を駆使した編集プロダクションの制作セクションの部長待遇で転職をしました。

この会社は大日本印刷凸版印刷共同印刷といった大手印刷会社や集英社講談社名の大手出版会社をクライアントに持つ会社でした。

24時間体制で出版用の版下データの作成や写真集のデータ作成をメインに受注していた会社です。

さらに、私が入職して半年後に、デジタルオペレータ養成スクールを開校して、その会社で受注した業務を自宅で作成して頂くという業務形態を確立し、会社の規模を拡大せずにスタッフを増加させるという業務形態を構築したのです。

私は、そのスクールの校長を兼務するようになりました。

さらに、時差を有効に使う事を考え、ある会社と合弁でハワイに現地会社を立ち上げました。

ハワイにいる日本人の方と契約を結び、文字入力やデジタルイラストの作成をハワイで行って頂き、通信技術を駆使してデータを日本に転送するというスキームを確立したのです。私も、立ち上げ時はハワイに常駐し、現地スタッフの採用や事務所の設置など、業務が軌道に乗るまでハワイで過ごしました。

事務所はアラモアナショッピングセンターの近くで、オフィスからはハワイの海が見えるという最高のロケーションでした。

しかし、ハワイは仕事で行く場所ではなくバケーションで行くべきですね。

30代から40代は、国内と海外を半々位で往復していました。

当時、多くの方から「そんなに海外へ行けていいね。羨ましいよ」とよく言われましたが、私は観光をしたことは一度もありませんでした。

 

しかし、その会社も業績が向上して、あるとき、関連会社を招待してパーティーを開いたのですが、その席である取引先の社長が、「この会社の業績が伸びたのは社長の力ではなく、ある社員の功績のおかげだ」とスピーチをしたため、私は社長から離れたセクションに移動になり、今迄のポジションからすべて外されてしまいました。

挙句の果てには、表だっては言われませんでしたが、退職勧告に近い仕打ちを受けるようになり、やむを得ず退職することになりました。

幸い、私の功績を評価してくれる方がいて、新しい会社を立ち上げるので手伝って欲しいと言われ、その会社に役員待遇で移動することになりました。

 

今日はこのくらいにしておきましょう。

 

今日はクリスマスです。世界中に幸せが訪れ戦争が終わり、世界中の人々が幸せなクリスマスと年越しを迎えられますように願います。

 

65歳の生涯を振り返ってみる(独身時代)

お早うございます。

 

今日は12月10日の日曜日です。

時間は午前5時50分です。

今年は暖冬と言われていましたが、この2日間の昼間の温度は10月下旬の気温で、最高気温が20℃位まで上がっています。

やっぱり暖かいですね。

 

今回は私の独身時代を振り返ってみたいと思います。

高校を卒業し1年浪人しましたが、希望の大学への進学を家族から猛反対され、学費援助も望めなかったので断念しまして、専門学校へ進学することにしました。

学費はアルバイトで貯めたお金を入学金に充て、東京でのアパートの敷金等も何と支払う事が出来たのです。

友人に頼んで、荷物を自宅からアパートまで運んでもらい、謝礼は夕飯で勘弁してもらいました。

1人暮らしの始まりです。

専門学校ではグラフィックデザインを学びました。

カリキュラムはかなり幅が広く、レタリング(活字と同じように文字を描く技術)から、アイソメトリックイラスト(機械の分解図を立体的に描く技術)写真をイラストで表現する技術など、表現するための技術を習得するカリキュラムでした。

毎日のように課題が出され、アパートへ帰ると課題制作をする毎日でした。

その時のアパートには、机、冷蔵庫(小型)ラジオ、電気ストーブ、一口コンロ位しかありませんでした。

テレビは無かったのです。

もっとも、テレビを観ている時間はありませんでした。

日曜日はアルバイトに充て、平日でも時間を作ってアルバイトをしていました。

アルバイトは、ある印刷会社の雑用です。

デザイン系の仕事に就きたいと思っていたので、印刷知識も必要と学校でアドバイスをもらい、印刷会社での夕方からの作業をしていました。

若かったのと志があったので、疲れを感じることもなく、毎日が楽しくてとても充実をしていたことを覚えています。

そんな充実した生活をしていたのですが、お金が無かったことと炊事をするのが面倒で、まともな食事を摂っていいなかった事が祟り、栄養失調で病院に行ったことがあります。

通学で電車に乗っていたら、急にめまいが始まり電車が回りだしたのです。

何だろうと思い、思わず座り込んでしまいました。最寄りの駅で下車して、駅員に声を掛け救急車を呼んでもらい、そのまま病院へ。

診察を受けたら、軽い栄養失調と睡眠不足による眩暈と診断され、ブドウ糖や栄養剤の点滴を受け、アパートへ帰ったことがありました。

当時の体重は49Kg程度だったと思います。

やっぱり若くても、食べることと寝ることをさぼると体は反発してくるのですね。

それからは、粗食でも米を食べ、野菜と肉か魚を食べるように心掛けました。

夏になれば学校は夏休みになりますから、その期間は終日アルバイトに明け暮れました。

課題もあったので、日曜日は課題を作成する日に充てました。

お金が無いので、極力出掛ける事を避けアパートで過ごすようにしていたのですが、中野と蒲田に友人がいたので、月に数回は食材を買って、友人のアパートへ押しかけて3人で食事をしていました。

お金のない者通しが集まるのですから、たいした食事は出来ませんでしたが、惣菜屋で揚げ物を買い、田舎から送られた米を炊き、インスタントの味噌汁で食事をし、ビールを飲んで騒いだことを覚えています。

用事もないのに歩いてサンプラザまで歩いていき、サンプラザの前で時間をつぶしたことも懐かしい思い出です。

 

学校を卒業して私は郷里に戻り、中学の時の美術の先生が教職を辞めて働いていたデザイン会社に就職をしました。

その会社は社員の募集をしていなかったのですが、履歴書を持って押しかけ無理やり採用を勝ち取ったのです。

何と無謀な事をしたのでしょう。

これも若さと情熱が成し得た行動だったのです。

しかし、現実は厳しく1日の殆どを会社で過ごすようになり、挙句の果てに胃潰瘍になってしまい、会社を辞めなければならなくなってしまいました。

今、あんな働き方をさせたら、労働基準監督署から指導が入ってしまいますが、当時は当たり前でした。

会社から家までは自転車で10分程度だったので、夜中でも帰ることは出来ましたし、社長も平社員も殆どが夜中まで働いていましたので、会社の経費で夜食を食べて、自宅へは4時頃に帰り、11時位に出社するという広告宣伝業界あるあるの生活でした。

私は、学生時代に学んだアイソメトリックイラストの作成を担当するようになり、精密版下と言われる、電気製品の顔となる部分(アンプやラジオの全面のボリュームやチューニングメモリなどを印刷するための版下)の作成をしていました。

その版下の許容範囲が10倍で作成して、許容誤差がプラスマイナス0.5mmという厳しさでした。

アイソメトリックイラストは、発売前の商品が支給され、その商品の全景図と分解図を描き上げる仕事です。

デザイナーになりたかったのですが、与えられた仕事は技術屋と同じでした。

さすがに、この厳しい仕事に耐えられなくなり、胃潰瘍になってしまい、医師から入院を宣告され、社長も退職を承諾することになったのです。

幸い、手術をすることだけは免れましたが、その後、半年ほど通院で定期的にレントゲン検査を受け、仕事に就くことが出来ませんでした。

 

その後、暫く自宅療養をして就職活動をしたのですが、なかなか職が決まらず仕方がなくまた上京することを決めたのですが、なぜか東京ではなく横浜に住むことになりました。

その理由は、次回に振り返る事にしましょう。

 

薔薇の花2輪を描いてみました。何気ない薔薇でしたが、2輪の薔薇が寄り添って咲いているところがいいなと思い描いてみました。

 

65年の生涯を振り返ってみる(中・高校時代)

こんにちは。

 

今日は12月2日の土曜日です。

時間は14時25分。

晴れています。しかし、寒いです。

昨日から急に寒くなりました。

 

いつもは日曜日の早朝に書いているのですが、今回は土曜日の午後に書いています。

月2回は演劇の稽古があるので、土曜日に書くことが出来ませんが、今日と第3土曜日は演劇の稽古が無いので、土曜日に書くことにしました。

 

では、前回の続きで今回は中学生と高校生時代を思い返してみましょう。

中学時代は、部活に力を入れました。

運動部はテニス部に入部し、文化部は演劇部に入部しました。

テニスは軟式テニスでした。

テニス自体は面白かったのですが、私はあまり上手になる事は出来ませんでした。

幼少期に運動をすることが出来なかったのもあるのでしょうが、あまり運動は上達しませんでした。

それでも、3年間諦める事もなく、テニスは続けることが出来ました。

お蔭で体力も付き、健康になることが出来ました。

中学生になると、中間試験や期末試験が行われ、小学校のように相対評価ではなく、テストの点数で成績が明確に判断されるので、私は勉強が嫌いではなかったということもあり、成績は学年の上位になる事が出来ました。

しかし、体育と数学は超苦手で、どんなに頑張っても上位に上がる事が出来ず、その2教科が足を引っ張ってしまい、ベスト10入りは出来ませんでした。

得意な科目は社会系(地理、歴史)と語学(国語、英語)。

理科は生物系は得意でしたが、物理系(力学等)はあまり好きではありませんでした。

美術は好きでしたので、成績もよかったです。

田舎の中学校でしたので、通学は自転車通学となり、雨でも雪でも自転車で通学していました。

中3になり、受験を意識するようになると、どこの高校を希望するかという事で、親と先生と生徒の3者面談が行われるのですが、私の場合は母と兄でしたので、3者面談を行った記憶がありません。

その頃の私は、将来どんなことをやりたいかという希望もなく、担任の先生のアドバイスをそのまま受け入れて受験する高校を決めてしまいました。

しかし、中学2年の担任が美術の先生で、その先生が、時間割を明朝体で綺麗に作成され、自分もデザインとか広告の仕事がしたいと思ったものでした。

しかし、3年の担任は現実的な考えの先生で、確実に入学できる高校を進めてきたので、なんの迷いもなく、その高校を受験しました。

受験は問題なく合格し、高校はバスと電車で通学することになりました。

高校時代は、勉強よりも自分のやりたいことを優先し、地域のボランティア活動をする高校生の団体に入会し、週末はその仲間と一緒に子供達とゲームをやって遊んだり、老人ホームに慰問に行って、お手伝いをしたりと忙しく過ごしました。

特に夏休みは、そのような活動をしている他校の高校生と交流を深めるため、また、県の社会福祉協議会の主催する研修やセミナーに参加するため、県内を移動して歩きました。

そこで知り合った他校の人と交流を深め、自分達でもセミナーや研修会を企画し、社会福祉業議会に働きかけ、県の宿泊研修所で泊まり込みの研修を行ったり、そのサークルで知り合った寺の息子に頼んで、何人かで寺に寝泊まりさせて頂き、座禅を組んだり、朝のお勤めをさせて頂いたりと、それは楽しい高校生活を過ごしました。

その一方で、私は結構やんちゃだったので、危ないグループとも繋がりを持ち、高校1年の時に、地域のチンピラ5人に袋叩きに合い、死にかけた事もありました。

キッカケは、私の先輩がそのような輩と仲が良かったので、一緒に遊んでいたのですが、結局は余所者だったので、つまらないいざこざに巻き込まれ、敵対するグループに捕まってしまい、袋叩きにされたのです。

その件がきっかけで、そっちのグループとは縁を切り(結構、大変な思いをしました)、ボランティアの世界に進んだのです。

それからは、ボランティア活動に没頭し、高校3年生の時は、県の代表として全国のボランティア活動団体のシンポジュームに参加させて頂き、今は無くなりましたが東京の代々木にあった、オリンピック村研修センターで行った研修会に参加させて頂き、日本中の方と有意義な時間を過ごしたことを覚えています。

そんな事ばかりやっていたので、大学受験の為の受験勉強は手を付けることが出来ず、1年浪人しましたが、合格することは出来ず、受験は諦め、デザイン系の専門学校に進むことにしたのです。

社会福祉業議会の方から、日本福祉大学などの福祉系の大学に推薦を取れるように便宜を図ってあげるとも言われたのですが、私立大学に入学するだけの費用を賄うことが出来なかったのです。

父が亡くなってからは、母と兄に面倒を見てもらっていたので、これ以上、家族に負担を掛けたくなかったという考えもありました。

専門学校には、浪人時代にアルバイトをやったお金を充当して入学したのです。

茶店のアルバイトでした。

このバイトも、高校時代の友人の紹介でやらせてもらうようになり、当時としては結構なバイト料を貰っていました。

茶店といっても、パーラー系の店でしたので、パフェやケーキに併せて、コーヒーや軽食のサンドイッチなどを出すお店でしたので、お客の半数は女性でした。

高校生の女子もよく来るようなお店でしたので、当時はよく声を掛けて頂きました。

何度か、バイトが終わった後に年上の方と待ち合わせてご飯に連れて行ってもらったこともありました。

丁度、バレンタインが流行り出した事もあり、2月14日にはチョコレートのプレゼントを沢山頂いた記憶があります。

今となれば、いい思い出です。

 

さて、次回は成人してからを思い起こしてみたいと思います。

 

今回もバラです。今年はバラを描いて年を締めくくりたいと思っています。水彩画を始めてよかったと思っています。最初は絵にならなかったのですが、描き続けていくうちにすこしづつ絵になって来ました。しかし、まだまだです。来年も描き続けようと思っています。

 

65年の生涯を振り返ってみる(小学校高学年から中学生時代)

お早うございます。

 

今日は11月26日の日曜日。

時間は午前3時です。

寒くなりました。予報では今日の最高気温は13℃だそうです。

我が家でも、こたつが用意されリビングではストーブが活躍しています。

 

さて、今日は私が小学校から中学を卒業するまでを思い返してみましょう。

私の小学校時代で大きな節目となったのが小学校4年生でした。

父が病気になったのです。

その病名は「躁うつ病」です。現代ではポピュラーな病気となっていますが、当時は「精神異常」として扱われた病気です。

私の父は、長男として生まれ、祖父から家を継承され自分の好きな事など出来ない状況で家業を継承したのです。

母とは見合い結婚をし、兄と私を子供として養う生活を送っていました。

私が幼少の頃は、割と裕福な家だったと思います。

しかし、父が病気になってからの我が家は大きく様変わりしてしまいました。

我が家は農家でしたので、収入は農作物を育成し農協へ卸して生計を建てていました。

当然、働き手の中心は父でしたので、その父が病気になってしまい、入退院を繰り返すことになり、家計は苦しくなってしまったわけです。

経済的な困窮は、農家にとってはさほど影響はありません。

取りあえず、母が父に代わり農作物の世話をして収穫をして、農協の方に農作物を引き取りに来てもらい、代金を受け取ればいいのですし、食べるものは肉や魚など自分の家で賄えない食品だけを購入すればいいだけなので、それほど困りませんでした。

大きく変化したのは、家庭の雰囲気でした。

家族に病人が出るという事は、家庭を暗くしてしまい、些細な事で軋轢が生まれるようになります。

父が入院している時はそれほど感じないのですが、退院して自宅療養をしていると、家族全員が父に気を使いどうしても会話が少なくなり笑いもなくなりました。

私も毎年行っていた海水浴にも行けなくなり、季節の行事も参加が出来なくなり寂しい思いをしたことを覚えています。

近所の人たちはさほど気にしていなかったように思えましたし、母もそれほど気にはしていなかったのですが、祖父はかなり父の病気による世間の目を気にしていたようで、私や兄が近所の子供と遊ぶ事も嫌がり、何かと厳しく行動制限をするようになったのです。

そんな祖父を見て、父は祖父と口論になり気分が落ち込み、塞ぎ込むようになるだけでなく、暴力的な行動もとるようになってしまったのです。

父はどちらかと言えば気の小さい神経質な性格でしたので、小さなことでも気にしてしまい、また自分の思う通りにならないと落ち込んでしまう性格でした。

私も、そんな性格を若干受け継いでいるようです。

現代では、躁うつ病は診療内科で診察を受け、症状が軽ければ投薬と自宅療養で改善に向かう事が出来る病気だと思うのですが、病気に掛かった本人や家族は辛い思いをしなければならない事は変わっていないと思います。

父は2年の闘病生活を過ごし、入退院を繰り返していましたが、病気の改善は見られずに過ごしていました。

私が小学校の6年生の3月。もうすぐ卒業式を迎える頃に、父は自分の命を絶ってしまったのです。

この事は、以前のブログにも書かせて頂きました。

私は今でもその時の状況を鮮明に覚えています。

学校から帰り、居間でテレビを見ていたのですが、父の寝室で何かうめき声が聞こえた事を覚えています。

しかし、私はそんな大それたことが起こっているとは知らず、そのままテレビを観ていました。

母が畑仕事から帰宅して、何気なく父の寝室を覗くと、いつも布団をかぶって寝ている父が布団を掛けずに寝ている姿を目撃し、その首に紐がまかれていて、目を見開いていることに気付いたのです。

その時点で、父は自分の人生を終わらせていたのです。

 

私にとってこの2年間。特に小学校の6年生の1年間は、とても辛い1年でした。

父の病気は改善せず、家計も逼迫し出し父は自宅療養をするようになり、家の中は暗く沈んだ1年だったからです。

私の気持ちも安定せず、塞ぎ込んだり暴力的になったりして、よく同級生と喧嘩をしたり担任に攻撃的な言動をしたり、授業を抜け出してしまったりと、不安定な生活をしていました。

当然、学業に専念することは出来ませんから、授業にも着いていけなくなり、成績や生活態度の評価は最悪でした。

教室でも孤立してしまい、休み時間はいつも1人で過ごしていたことを覚えています。

まだ、小学生だったので、悪い道に進むという事にはなりませんでしたが、かなり危険な状態だったことは覚えています。

卒業式の時は父の葬儀も終わっており、私の状態も安定していたので、卒業式の後の謝恩会で、6年の担任の教師に「辛い1年だったな。これからも辛い事は沢山待っているだろうが、負けないで生きて行ってくれ」と言われたことは今でも覚えています。

 

父が亡くなり、家の中の雰囲気が少し明るくなり、私も中学に進学するので気持ちも前向きになっていました。

しかし、中学の入学式は父の法事と重なってしまい、家族の参列もなく事務的な手続きを私が自分で行ったことを覚えています。

特に寂しいという思いは抱く事はありませんでした。

この頃は母に苦労を掛けないように、手伝えることは出来るだけ手伝ってあげ、少しでも母の力になろうとも思っていたし、兄もいたので、少しづつ日常が戻ってきたのです。

 

しかし、この平和な日々もそれほど長続きはしませんでした。

当時、まだ祖父は元気でしたので、家の仕事こそはしていませんでしたが、兄が父に代わって仕事を始めると、何かと口を出してくるようになったのです。

祖父としては心配だったのでしょうが、兄からしてみれば迷惑な話だったのでしょう。

兄と祖父がぶつかり始めたのです。

しかし、この状況もそんなに長続きすることもありませんでした。

祖父が癌に罹患してしまったからです。

やはり、自分が病気になると気が弱くなるのか、手術後は大人しくなってしまい、兄とぶつかることは無くなりました。

祖父も病気をして数年で他界してしまい、家族は母と兄、そして私の3人になったのです。

その頃、私も高校に進学しており、自分の好きな事に没頭しており、殆ど自宅には寝に帰る位、色んな事をやっていました。

特に夏休みは殆ど家にいることは無く、ボランティア活動に熱中しており、同じ志を持った高校生達と毎日を楽しく過ごしていたことを覚えています。

ちょっと話が高校生まで進んでしまいましたが、中学時代の私は運動と演劇にはまり、運動ではテニスを、そして演劇部にも所属して演劇にも熱を上げていました。

中学は小学校とは違い、テストの成績が校内に掲示されるので、誰がトップかが一目瞭然でしたが、私は幸い成績では上位に名を連ねることが出来、小学校時代の落ちこぼれの汚名を返上することが出来ました。

運動の方はずば抜けて優れているという訳ではありませんが、3年間テニスをやり通し成人になってもテニスは続けていました。

演劇も40代の頃にあるノンプロの劇団に所属し、サラリーマンとしての顔と役者の顔を持ったことがありましたが、役者では生計が立てられない事を悟り、サラリーマンに集中し、面白い人生を歩むことになるのですが、この辺りは別の機会で書きたいと思います。

 

私の小学校高学年の時代は、闇の時代でした。

辛く出口の見えないトンネルを立ち止まったり、走ったり壁を叩いたりして進んだ時代でした。

今でも、その時の歪んだ自分に戻りそうになることがあります。

しかし、過去に囚われて過去の自分に戻っても、なにも楽しくないと自分に言い聞かせています。

そんな事より、今を楽しく生きることを考え、そのために出来ることをやる事に集中するようにしています。

 

さて、次回は高校時代から専門学校時代を振り返ってみたいと思います。

 

大輪の薔薇です。後ろの咲き掛けの蕾もあり、綺麗でした。絵としては若干しつこくなってしまった気がします。