暑すぎる夏

今年の夏は異常だ。

地域によっては豪雨によって、全てを失ってしまう地域も出ている。

また、連日の猛暑で熱中症とコロナ禍で病院が切迫している。

なぜ、このように極端な気象状況になってしまっているのであろう。

この現象は日本だけではなく、世界中で見られている。アメリカでも熱波で山火事が起こり、欧州では氷河が解けて災害が発生している。

 

異常気象の原因は

 

この異常気象の原因は何だろう。私は気象予報士でもなければ、その道の専門家でもないので、詳しい事は解らない。

しかし、身近なところから見て明らかに変化していることが、何点かあげられる。

まず、地表をアスファルトやコンクリートで覆ってしまっていること。

私は、田舎育ちだったので、子どもの頃は近くの川で水遊びをしたり、畑にキュウリや夏野菜を取りに行ったりしていた。田んぼは稲が青々と茂り、風で稲が銀色に波打っている光景をよく見ることができた。

しかし、日本中の都市化が進みこのような光景が少なくなり、住宅環境も変わりエアコンから吹き出す熱風が外気温度を上げ、さらにアスファルトやコンクリートの輻射熱が追い打ちを掛けている。

我が家には猫の額ほどの庭があり、植物を植え、水を上げたりしているが、玄関側はコンクリートアスファルトで蓋をされており、夏の昼過ぎには照り返しで異常に暑い。

都市部の空気は異常に暑くなっているのではないだろうか。それに伴い、海水の高温化も進んでいるため、地球全体が高温化になってしまっているのではと推察される。

それを軽減するため、二酸化炭素の排出を抑えることや、色々な環境問題への対応が世界規模で始められている。

しかし、まずは身近なところから改善しないと根本的な改善は出来ないと思える。

例えば、住宅地の20%は地面のままにしておかなければいけないといったルールを決めるなどが必要になるのではと思います。

確か、工場では敷地の20%は緑地化させる法律があったと記憶していますが、住宅地や商業施設にはないのでしょうか。

特に、商業施設には敷地の20%の緑地化を義務化するべきと思えます。なぜなら、大規模商業施設は殆どがアスファルトやコンクリートで地面に蓋をしていると思えるからです。

どうしても大きな駐車場を確保しなければならないのは解りますが、大規模商業施設の郊外化や住宅地内の建設が増えている現状を考えても、このようなルールは必要になるのではないでしょうか。

 

私達は本当に自分たちの未来を考えているか

 

この問題は、自分自身に問いかける問題です。

「は本当に自分の未来を考えているのか。」

齢60歳を過ぎてから、自問をするようになりました。

「刹那的に生きる」という事をある書籍で学びました。それはそれで大事な事だと思えますが、間違った判断をすると「自己中心」の生き方になる危険は無いのかなと思ってしまいました。

この解釈は、正しくない事は理解できているのですが、最近の世の中を見るとどうしてもそのような考え方が浮かんでしまいます。

世の中のスピードが飛躍的に早くなり、自分に不要な情報がどんどんと入ってくる。

その情報の殆どがネガティブな情報で、自分の未来に希望を持つことが出来ない方が増え、その原因を世の中や他人のせいにして、自分を正当化してしまい、他人を傷つけることも厭わない考え方が蔓延し、知らないうちに自己中心の考え方になっている。

だから、そうなった人を手放しで避難することが出来ない自分がいて、やったことは間違っているのに、なぜか擁護してしまう気風が漂っているように思えます。

この思いは、自分もその立場だったら、そうなる可能性があるという危ないメンタルを持っていることを自覚している人が多いという証明ではないでしょうか。私も、その一人ではないかと意識しています。

だから、自分をしっかりと持ち、自分を見つめることを意識して生きていかなければならないと自覚しております。

誰かのせいにして生きるのは、ある意味、楽な生き方かもしれませんが、その生き方は自分自身を意識した生き方なのかと思っております。

生きているという事は、自分の選択の連続です。何をするにも自分が決めているという事を意識して生きていくことが重要だと意識しています。

この点を意識するまでは、私もどこかで人生を他人のせいにして生きてきたのではないだろうかと思いました。

何か悪い事が起こると「誰かのせい」にして、自分の責任を転嫁していたように思いました。

しかし、人生は誰のものではなく自分の物なのです。

自分に起こる事象は、自分で選択し自分が選択した結論に併せて行動しているので、自分の行動には自分が責任を持たなければならないと意識することが大事ではないでしょうか。

ゆえに、「刹那的に生きる」とは、今の自分を大事に思い、自分が選択した行動に責任を持ち、今を一生懸命に生きる」ことだと意識しました。

今を一生懸命に生きることを意識すれば、未来の自分を考えることも出来るようになるのではないでしょうか。

「今を生きる」のに未来を考えるとは矛盾しているように思えるかもしれませんが、今を選択することは未来を見据えなければ、無責任な選択になってしまうように思ったのです。

 

自分勝手な選択は未来をなくす

 

今、政界は色々な意味で揺れています。

統一教会問題」や「安部元首相国葬問題」。

さらに、過日行われた参議院選挙で当選したにも関わらず、国会に出席しないあるユーチューバー議員の問題。

どの問題も、誰かがしっかりとしたリーダーシップを取ることなく、問題化されているように思えるのです。

統一教会問題」は、阿部元首相殺害がきっかけで火がついて、大問題になり政界を揺るがしています。

そして、誰もが自分が当事者という意識を持ち合わせておらず、誰かのせいにして逃げているように思え、全く関係ない輩は静観するか、見当違いの攻撃を加えことを大袈裟にして、本当に今やらなければいけない問題をないがしろにして、自分の株を上げようとしているようにしか取れません。

決して、この問題をうやむやにするべきとは思っていませんが、まず、今、本当にするべきことは何なのかをしっかりと選択して頂き、その問題をしっかりと行って頂く。さらにこの問題の当事者は、自分の行った行動をしっかりと認識して頂き、その件で反省することがあるのであれば、しっかりと反省をされ国民に報告をして国民の信託を仰ぐべきと思えます。今やるべきことをやらずにその問題に右往左往して、今を失うことの重大さを意識して頂きたいと思えるのです。

「安部元首相の国葬問題」は、個々の主観があるので全ての方が納得いく結論は出ないでしょう。

確かに安部元首相の業績は事実として認識できる客観的な現象でしょうが、その思想的な行動は各々の主観になるでしょう。良いと思えば良いだし、嫌、違うと思えば違うでしょう。

リーダーをされる方の評価はそんなものではないでしょうか。

賛否はあると思います。

議論を無視した選択は、納得できない結論であることも否めません。

この選択も未来を見据えた選択と言えないように思えます。

 

最後に参議院議員に当選しながら登院しない新人議員の件ですが、この方を議員に選んだのは、我々国民です。

元より、海外にいてかつ帰国すれば犯罪者になるかも知れない方が立候補すること、その現状をしりつつ党として立候補を認める政党と党代表。言いようによれば無責任な選択ではないでしょうか。

当選すれば国費(税金)から歳費が支払われ、国会議員という特権を得ることが出来る。

確かに、リモートで議会に参加するように出来る環境を作ることも大事でしょうが、まずは選ばれたことに対する責任を全うすることが大事ではないでしょうか。

それを身勝手な言い訳で自己弁護して、登院もせず、ましてや国民の選択により公務員の役職の国会議員になったのですから、己の責任を全うすべきではないでしょうか。

責任を全うした後に、暴露行動を起こして世直しを行うなら、国民も納得するでしょう。

「俺はお前達、爺に国会議員にさせてもらった訳ではない。俺に投票した国民が俺を国会議員にしたんだ。だからお前らにグダグダ言われる筋合いはない。」と言ったそうだが、自分が国民に信託されなくなった時、同じように「お前たちが俺を国会議員にしたんだろう。俺はお前達が国会議員になれと投票されたから国会議員になったんだ。有難く思え」とでも言いそうです。

これも選択の結果です。

多分、彼に投票した方々は、スーパーヒーローが世直しをしてくれるか、誰に投票しても同じなら面白い奴に投票して、少しでも淀んだ空気をかき混ぜてもらいたいという思いがあったのでしょう。

彼がこの後、どのような行動をするかは彼の課題ですので、我々には解りません。

しかし、どのような結果になろうとも、我々が選択した結果として冷静に捉え、結果が満足できない場合は何がそのような結果になったのかを分析しなければならないでしょう。

 

しかし、今年の夏は、色々な意味で暑い夏になりましたし、まだまだ、暑い夏は続きそうです。